ヨウ素剤服用を決断した原発から50キロの三春町(その1)

先週、最近よく大事?な番組を見逃しているので、1日の最初にまず新聞のテレビ番組欄をチェックをしようと思い、日曜日見つけた番組がこのNHK朝の10時からの番組でした。福島県の三春町と言えば今年「光は辺境から…自由民権 東北で始まる」(1月28日)で自由民権家の苅宿仲衛が浪江と行き来して演説をしたことがあったというので覚えていた町の名前です。昼間の10時では…と録画したのを見ました。
その前に、左の写真は10月3日の讀賣新聞1面トップ記事です。
原子力規制委員会は3日の定例会で、原子力発電所で事故があった時に住民を守るための新たな防災指針『原子力災害対策指針』案を公表。防災対策の重点区域を原発から30キロ圏内に拡大し、甲状腺被曝を防ぐ安定ヨウ素剤を各戸に配ることを求めるなど放射性物質が大量に放出された事態に初めて対応した。指針は月内にとりまとめられる。
 安定ヨウ素剤を50キロ圏内の各戸に事前に直接配布しておくことなどが検討課題に。これまでヨウ素剤は原発周辺の各自治体が保管し、事故後に配布することになっていたが、福島第一原発事故では混乱を極める中で配布されないなど対応が後手に回ったことを教訓にした。(前、後略)」
番組は、この安定ヨウ素剤を巡る三春町の昨年の震災後4日間のドキュメントです。
ここでは時系列でインタビューを交えて再現追跡しています。どの方の言葉も心を打ちます。見終わって、信頼される行政とは、責任とは、判断とは、親の役割とは・・・などなど考えさせられる内容でした。三春町のどの部署にあるどの方たちもあの状況の中で最善の方法を探って自分たちの責任を果たそうと必死でした。それでは、私なりの書き起こしで:(青字は会話部分です)

2012年9月30日(日)放送

明日へ―支えあおう  証言記録 東日本大震災
          
  第9回 福島県三春町〜ヨウ素剤・決断に至る4日間〜


福島県三春町は阿武隈山地の西の裾野に抱かれた人口18000人の小さな町。室町時代から続く城下町でこの地方の中心として発展してきた。町の自慢は樹齢1000年と言われる枝垂れ桜の巨木、高さ14mの滝桜です。春になるとこの木の生命力にあやかろうと毎年30万人が訪れる。
三春にとって一番良い季節を迎える直前、あの地震が起こった。三春を襲った揺れは震度5強。道路や家屋が次々と損壊し、町は混乱に陥る。そして三春から50キロ東にある東京電力福島第一発電所で起きた事故が混迷に拍車をかけた。そうした中、三春は放射能から身体を守る安定ヨウ素剤を入手。しかし、服用に必須とされる国や県の判断は示されなかった。不確かな情報が錯綜するなか、自ら情報を集め、町民に薬の服用を促した三春町、その葛藤と決断の記録である。

2011年3月12日
東電福島第一原発で事故があり、翌日深刻な事態に。午前5時44分、避難区域は3キロから10キロに拡大。あの枝野氏が、「10キロ圏外に出てもらうのは万全を期すためで、その点ご留意を。落ち着いて退避をしていただきたい」とアナウンスしていた。原発から真っ直ぐ三春方向に伸びる国道288号線がある。原発周辺の大熊町富岡町に住む大勢の被災者が阿武隈山地を越えて三春を目指した。
12日以降、災害対策本部となった町役場で被災した町民支援に当っていた総務課長(当時)橋本国春さんに県から原発被災者の受け入れを求める一本の電話が入った。
橋本さん:「警察の方から原発近くの相双地区の人が避難されるので三春町で何人受け入れられるか、という電話が午前中にあった。『どのくらい?』『まあ〜700人ぐらい』というので、700人くらいだったら受け入れてやったらということで職員何人か割り振ってその準備をした」 しかし実際には町に5000人の避難者が殺到、9カ所の避難所で2000人を受け入れたが、それが限界だった。

12日、午後3時36分、1号機の水素爆発。事故の深刻さは誰の目にも明らかに。国は万全を期すとした10キロを20キロまで拡大。
その頃被災者の健康相談を担当していた町の保健師竹之内千智さんは三春町の各地の避難所を廻っていた。町民体育館は、大型観光バスが十何台、自衛隊の布張りトラックが2,30台と駐車して、避難者であふれていた。
端から声を掛けて病気の相談にのっていた竹之内さんは、原発のある富岡町の妊婦が手にしていたある薬の服用について質問を受けた。黄色い袋に入った丸い錠剤、初めて見る薬だった。「もう一人巡回している看護師と二人とも見たこともない薬で、逆に『何処からもらったんですか? なんて言ってもらいましたか?』っていう話をして、出発する前に甲状腺ヨウ素を、被曝する前の薬といったのか・・・ただ、『飲むか飲まないかは自由ですと言われたんで、どうしたらいいでしょう?』ということで、即答できず、じゃ、私たち帰って調べて見るので待ってもらっていいですか?ということで・・・」
所属の保健福祉課に戻り、経緯を話し相談したのは二人のベテラン上司、町民の健康管理を統括する保健福祉課長(当時)の工藤浩之さんと、保健師の佐久間美代子さん。二人とも薬を知らず、調べなければならない。

3月13日
工藤さんたち保健福祉課のチームは本格的調査を開始。薬は安定ヨウ素剤と言って放射線被曝から身体を守る効果のある重要な薬だった。その仕組みは、原発事故によって放出される放射性ヨウ素はのどにある甲状腺という器官に蓄積されやすい性質をもつ。これがガンを引き起こす原因となる。しかし放射能をもたない安定ヨウ素をあらかじめ薬で送り込んでおけば放射性ヨウ素をブロックする効果がある。

この薬はまれに副作用があらわれる。ヨウ素アレルギーの人が飲むと発疹や熱が出ることがある。また、配布にも国や県の指示と医療関係者の立ち合いが求められていた。
難しいのは服用の時期である。被曝の24時間前に飲むと93%のブロック効果がある。しかし時間が経過すると効果が減少する。被曝の2時間後だと80%、8時間後に投与すると40%、24時間後だとわずか7%しか効かない。適切なタイミングで飲むのが大事な薬なのです。
目に見えない放射能の怖さを竹之内さんは初めて知った:「資料を見せられ読んでいく内に怖くなってきたんです。ここに居ることも大丈夫なのかな〜。自分自身の被曝の不安も含めて大丈夫なのかっていう…凄く不安が襲ってきたので、これは凄くまずいことなんだというのが初めてわかりました。」

保健福祉課が調べた結果は町の本部に伝えられた。報告を受けた災害対策本部の責任者、副町長(当時)の深谷茂さんは原発事故について考えたこともありませんでした深谷さん:「我々は原発そのものについての知識といったものは余所のことだと、阿武隈山系を挟んで向こうの浜通りの話だろうという風にしか思っていなかったんです。」

そんな中、一人の職員が原発のある大熊町からやってきた。防災担当で原子力管内に精通していた石田仁さん。震災後徹夜で住民の避難の誘導をしていた石田さんは1号機の爆発を真近で見て原発事故の深刻さを肌で感じていた。深谷さんはその知識に驚きます。原発対策のアドバイザーとして何度も相談することにしました。役場の対策本部の一角に自席を貰った石田さんはすぐに汚染状況を調べ始めます。

深谷さんたちが示したのはオーストリアの研究機関が作った拡散予測でした。大気の流れを計算し、汚染物質が飛ぶ方向を表していた。「どの程度のものが来るか、どういう風な状況で拡散しているか、住民を守るにはそういう情報がなければ動きようがないわけですよね。こういう状況では、濃度が分りませんが、本来はそのうちプルーム(放射性雲)が流れてくる可能性がありますよと、ここは一寸濃いのが来るかも…と声を掛けたり、そういう風な話はそれを見ながらしていました。」
SPEEDI/原子力安全技術センター」実は日本にもSPEEDIという独自の拡散予測システムがある。汚染を正しく把握するため国が開発した。しかしこの震災では停電などにより肝心の放出面?でのデータが入手できず汚染の強さが計算できなかった。ヨウ素剤の服用判断はこのシステムに委ねられていた。国は最初の一歩でつまずいた。SPEEDIのあるセンターでは事後当時データの入手が出来なかったため仮の値を入れて計算していた。
13日には1つの原子炉が完全に破損するという想定で放射能の拡散と濃度を予測している。一番外側の黄色い線がヨウ素剤を飲む必要のある地域を示している。国は震災直後から毎日さまざまな条件で拡散予測を作成していた。しかしそうした情報は三春には届かなかった。
副町長の深谷さん:「放射能の拡散とか人体に与える影響量、そういったものがどういう状況なのか、それが一番我々が知りたかった。それによって町民をどう誘導したり、これから対応するか、一番今回の事故の大事なところだったので、そういったものをきちっと我々が知りたい、情報が欲しいんだということは県に問い合わせはしてました。ただ、それは、分らないと・・・残念ながらそういう回答だったので。」<つづく>