いよいよ後半、三春町の人々は国や県からの情報を得られない中、独自に情報を集め自分の頭で考え始めます。
そして各々の持ち場で自分の責任で判断を迫られます。職を賭した命の安全を守る決断の時が迫ります。
それでは後半も私なりの書き起こしで:
明日へ―支えあおう 証言記録 東日本大震災
第9回 福島県三春町 〜ヨウ素剤・決断に至る4日間〜
3月14日午前11時1分、3号機水素爆発。その3号機の爆発により原発は危機的な状況に陥る。
県の情報を待てないと副町長の深谷さんらは独自の情報収集に乗り出す。深谷さんは自ら役場の屋上に吹き流し(アンテナの先端にビニールひもを取り付ける)を設置するとともに職員たちに更なる情報収集を指示した。
深谷さん「ニュースソースとしてはテレビとネットしか実際に情報がない。当時の部下の連中には、そこに想像力と知恵を働かせて判断というものが大事なんだよと、それをまさにみんなでしようと。」
14日午後
看護師の竹之内さんたちは独自に動き出していた。安定ヨウ素剤を県が持っていることを突き止め県庁のある福島市へ向かった。県は元々備蓄していた原発周辺の6つの町のほかにも薬を配備できるように調達を進めていた。
竹之内さん「県の本部の部屋の前に広い廊下があって、マスコミやいろんな関係者が廊下に机を出して並べて、雑然とした中に段ボールと一寸飛び出したこの箱たちがダダッて雑然と並んでいたんですね。それを見て一寸ビックリしたところはありました。なんか誰でも持っていけるじゃんっていう環境だったので。薬、幾ついくつ下さいって担当者に言ったら、結構、数え方も適当だし、これでいいのかな、みたいな感じでもらったんですけど」と服用が必要な40歳未満の町民7428人分を入手した。
三春のアドバイザーとなっていた石田さんに薬を飲むタイミングを聞きに行った竹之内さんは「明日15日が最も危ない」と告げられる。
「『これ(3号機)が更なる何かの爆発をしたらその時は僕たちのふるさとを失うことです』って言ったのは凄く強い印象に残っていて、その時に初めて本当に、こう、命がけのことなんだなっていうのを感じたのと、『大事なのは風向きと、東風のタイミング』、ただ、『阿武隈山地に引っかかってくれることを祈ってます』とだけは言ってました。」 竹之内さんはこの時の石田さんの発言を記録に残していた。石田さんはしきりに原発からの風向きを気にしていました。気象情報では明日15日は15時から風向きが変わり、原発方向から吹く東風になると予測されていた。さらに夕方から雨の予報が出ていた。もし東風と雨が重なれば線量の高いホットスポットが出来る可能性があった。14日夜
明日は危ないという情報を手にした街の災害対策本部はヨウ素剤配布の是非を決める緊急の課長会を開くことに。呼び出されたのは12人の課長。会議では市民感覚を知るため、あえてヨウ素剤に詳しくない人の発言を求めた。
まず不安の声が上がりました:「原発が爆発している、だから個人的には多分放射能は漏れているんだろうなという認識はあった。ただ、その時点で国とか東電とかマスコミからもそういう連絡とか報道はなかったわけですよ。この辺の線量ってどの程度なのか、その辺の把握をしたうえで判断すべきでないのと。」、「じゃぁ、それを配って飲ませることになると、もう三春町がすでに原発の近くの状況と同じような状況になっちゃっているんじゃないの?というのを逆に町民の方々に植え付けてしまうという、宣伝すようなことになってしまうのではないかなと、逆にその方が心配が先にたってしまった。」初めて経験する異常事態に明確な答えは誰も示してくれない。自分たちで最善の方法を模索する。
総務課長(当時)橋本さん「11日以降なかなか県との平常時の協議というか、そういう状態ではなかったので、ある意味では、うちの方だって県からもらって来てるわけですから、県の指示なしでそれを配ることは、ある意味では、もう非常時の止むを得ないことかなと思っていました。」
←保健福祉課長(当時)工藤浩之さん「配布はしたけど飲ませる指示を出さなくて後で”実は高濃度でした”というリスクと、後は配って念のため服用して下さいって飲ませた場合、結果として”(濃度が)高くなかった場合”と比べたら、どっちが深刻なことが起こるかを考えると、後になって手遅れになって結局高濃度の被曝にさらされてしまった方がリスクは多いなと考えましたので、やはり配るべきだろうと。」
町長の鈴木義孝さん「いろいろ副作用もいくらかあるということも保健師の調査であったけれども、そんなに人体に影響を及ぼすものではないという。そういうことの判断で良しと課長会で結論を出したなら、それでやれと、後はもう何があっても責任は持つからということで判断した。」会議と同時進行で配布の準備が着々と進められていた。
保健福祉課が中心となり薬を渡す町民7000人のリストアップを完了させていた。さらに役場中から30人の応援を得て封筒に名前を貼る手はずが整っていた。各世帯の人数、年齢に応じた数のヨウ素剤を1つづつ袋に詰める。配布前、保健師たちはある覚悟を決めていた。国が作成したヨウ素剤の取り扱いマニュアルによると、配布には医療関係者の立ち合いが求められていた。今回、医師は被災者の治療に専念してもらいヨウ素剤の配布は保健師が対応することにした。
竹之内さん「やっぱり基本的にこれ劇薬ですし、お薬って医師の処方があって初めて出せるものだし、自分たちだけで薬を飲ませるというのは基本的には無い行為ですよね。なので万が一何かあって責任を問われたときに、やっぱり自分の、保健師、看護師、助産師の職業生命が絶たれる可能性もあるなと思いましたね。」3月15日
午前6時頃、第一原発では2つの原子炉が相次いで損壊。
中でも2号機は格納容器の破損と疑われる異変が発生。極めて高濃度の汚染を引き起こす。
この時、原発周辺では南へとの風が吹いていた。広範囲に広がる汚染に三春が気付いたのは早朝のテレビでした:「原発から南へおよそ80㎞離れた福島県との県境にある茨城県の北茨木市では今日になって放射線の量の値が上昇していることが茨城県の測定で分かった。午前4時には1時間当たり4.87マイクロシーベルトと通常の100倍近い値をしめしたということです。」
報道によると三春より1.5倍も離れた茨城県にも強い放射能汚染が広がっていた。
朝8時、町長の出勤を待って町は服用の決断を下します。
副町長の深谷さん「北の風から南の風、東の風に変わるということは想定されていたし、15日の午後にはこの辺も雨、またはミゾレだということもあって、そうすれば放射性プルームといったものが雨で叩かれる心配がいちばん強くなるのは15日の午後だろうと。そこに2号機、4号機が朝そういう状況だとすれば、やはり今日がそのタイミングだろうということを踏まえて、町長がここに出勤すると同時に、今日がやはり服用のタイミングだと思いますということは申し上げました。」
2号機の爆発により周囲の線量は上昇、午前11時、国は新たに30キロメートル圏内に屋内退避を指示します。
深谷さんが取り付けた屋上の吹き流しは、この時両側にある山の影響で風が乱れてしまい思うように観測できず、風を測る良い場所はないかと、深谷さんは町の東側に土地勘のある町議会議長の本多さんに相談します。
本多さんが推薦したのは町の北部にある高台。東側が開け風の流れをつかめる場所でした。高台の頂上には入浴施設があり森林が風を遮ることもない。この入浴施設には震災翌日から炊き出しのボランティアをしていた本多さんの娘さん・千春さんが働いていた。電話で依頼を受けた千春さんは倉庫に向かう。手にしたのは高さ2mの(何かの)支柱とビニールひもでした。その時作った吹き流しが今も残っている。「写真を撮った時は、この木に設置した支柱の先のビニールひもの部分は、原発のある東からの強い風が吹いていたので、真っ直ぐ左に吹いていました、なびいていましたね。」
恐れていた原発方向からの風でした。千春さんはこの写真をカメラごと町役場に持ち込みました。
町長「ヨウ素剤を飲ませるということは一つはやっぱり勇気のいることですから、初めての試みですので、風がコチラに吹いているよという何か証しがなければ駄目だろうと思って、それで写真を撮ってキチンとこちらに届けてデータとして残しておくということで写真を撮らせたんですよね。」
町では住民全体に薬に対する理解を促すため7つある自治会の役員に協力を求めた。
薬の配布を原発周辺以外の町で行うのは初めてのケースでした。
薬を飲まなくてよい40才以上の町民や飲む量の少ない子供を持つ世帯が慌てないよう自治会を通じてヨウ素剤の効能と放射能汚染の可能性を周知してもらうことにした。
町では「ヨウ素剤服用のてびき」を作成。対象年齢や薬を飲んではいけない人、服用上の注意など詳しく情報を書き添えた。
服用の指示は薬を手渡す時、現場で行うことにした。周知を万全にするため防災無線も最大限活用していた。三春は各家庭に無線の受信機が設置してある。薬を受け取ったらすぐ服用するようにと繰り返し放送した。テレビやインターネットの情報だけに頼らず自分でつかんだ情報をもとに薬の服用を決断した三春町。初めて薬を目にしてから4日後の午後1時、配布が始まります。
←この時撮影された写真があります。保健師や看護師の立会いのもと町内8カ所で配布が行われた。住民の安全を最優先に考えた決断でした。
竹之内さん「やっぱりいつもと違う緊張した面持ちで、『やっぱり飲んだ方がいいんだよね』『飲んだ方がいいのよね』とかいう声はあったかなと思います」
「何と答えたんですか?」「必ず飲んで下さいって。魔法の薬ではないけれどヨウ素の吸収を抑えるためには大事な薬だから、特に子どもには絶対飲ませてって話はしましたね。」
多くの町民はすぐに薬の服用を行いました。
4歳の息子を育てるこの家では、今が大切なタイミングか家族で話し合ったうえに飲む決断を下します。母親:「あの混乱の中でそれを配るということで、いろんなことを短い時間でなさっていたと思うんですけども、町民に悪影響になることをワザワザ大変なさなかにやるはずがないと思いましたし、国よりも近しい環境で暮らしてきたので、そういう町の責任を持っている方に対しての信頼感っていうのはあったから、そこで飲もうと思ったんですが。それを飲むっていう状況はもう誰にも経験してほしくないなって思いますね。」
配布が終わりに近づいた午後5時頃、保健福祉課長の工藤さんのもとに県職員から一本の電話がかかってきた。<つづく>