玄侑宗久氏の<「分断」の壁は厚くなるばかり>(福島原発事故)

◎昨日の沖縄宜野湾市長選の結果は、辺野古移設反対を支持する私には大変残念な結果に終わりました。毎日新聞からです。宜野湾市長選の選挙と辺野古移設の問題は関係がないと言っていた政府ですが・・・。毎日新聞の指摘「政府の辺野古移設推進姿勢を「支持しない」とした人(約六割近く)のうちの約3割が佐喜真氏に投票した」という「市民の葛藤」を」無視して、いっそう、辺野古移設工事推進にまい進するんでしょうね。仲井間元知事のあの2年前の12月の裏切りが本当に許せないですね。

宜野湾市長選:民意どこに? 辺野古言及なかった佐喜真氏

 米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市の市長選が24日投開票され、普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設計画を推進する政府・与党が推す現職の佐喜真淳(さきま・あつし)氏(51)が、移設に反対する沖縄県翁長雄志(おなが・たけし)知事が全面支援した新人の元県幹部、志村恵一郎氏(63)を大差で破って再選を果たした。

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◎土曜日夜のNHKスペシャルは、福島でした。新聞の番組欄が内容を表していますので書いてみると、「ゼロからの”町再建”福島原発事故から5年、住民帰還から始まった町、奔走する町職員に密着▽苦闘と希望」。自分も避難先に家族(小さな子ども二人)を置いて、単身、町の復興の為に働いている町職員の方や、一人暮らしや高齢で戻った人たちを見守っている方の活動を見ていると、前途多難な復興の道のりに言葉もありません。
丁度、父が読み終えた先月分の「文藝春秋」誌に掲載されている、福島在住の玄侑宗久氏の文章を読んでいました。「(大型企画)日本を変えた平成51大事件/当事者と目撃者が振り返る」という特集記事があって、その中の一つが平成23年の「福島原発事故」です。全文を書き移してみました。

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「平成23年 福島原発事故
「分断」の壁は厚くなるばかり   玄侑宗久(作家・僧侶)

 「千年に一度」の大震災とされる東日本大震災。平成二十三年三月の発生から五年が経過しようとしている今も、福島第一原発事故野影響によって多くの住民が避難を余儀なくされている。今福島の人々はこの震災をどう捉えているのか。福島県三春町在住の臨済宗僧侶、作家の玄侑宗久氏による特別寄稿。

 東日本大震災に続く福島第一原発の事故によって、我々は何を学びどう変わったのか。ごくごく素直に、今の気分を書いてみたい。
 震災以前から、地球の自然や資源には限りがあり、今のアメリカや日本並みにエネルギーを使う人々が増えていけば、遠からず枯渇することは分かっていた。だからいずれ生活を転換する決意をしなくてはいけないのだが、「先着順の勝ち組」に属するこの国は、その問題ばかりは先送りにしてきた。多くの貧困国に支えられた現在の反映を、とりあえずは守ろうと躍起だったのである。
 そんなとき、震災と原発事故が起きた。国民の殆どはその直後、自ら節電に協力し、ああ、これでもやっていけるのだと自覚した。いまこそ転機の好機だと思った人も多かったはずである。しかし震災後を端的に表現する言葉は「分断」。当然のことながら、そんな「後退」は許されないと考える人々も大勢いた。現在の政権は、その立場をうまく代弁することで支持されているのだろう。「清貧」など遥か昔の話で、この国はすでに「贅沢」と「幸福」が同義語化している。その意味では原発事故によってさえメインストリームは変わらず、経済最優先でありつづけたと言えるだろう。

 小泉元総理が脱原発に転じたことからも分かるように、政治家としての見方は政治家である間だけ保てばいい。その政治家に、三十年後のことまで決められてしまう事態を、我々はいま経験しつつある(昔からそうだったのだろうが、自覚がなかったのである)。
 事故後の変化は無数にあり、それに気づく人は多いはずだが、果たしてそこから教訓が導かれるのかどうかは未だ不明である。
 まず目立つのは、放射線放射能についての学問的権威の失墜だろう。厚労省じたいが「安心」「安全」と併置して使うため、「安心」できなければ「安全」とは言えなくなった。学問が心情に屈服し、「安全」診断を放棄した結果、たとえば余所の県の五分の一の線量でも除染するような事態が多発し、大事な税金が垂れ流される一方、セシウムがNDの米でも福島産は買わない、という人々が二十三%もいる。
 チェルノブイリと違って、日本は被災地のどの町村も消滅させなかった。しかしこれは、被災地についてのグランドデザインが描けなかったとも解釈できる。四年半経って元の自治体に戻りたいといういう人はいずこも十%余り、しかもそれは高齢者ばかりだから、いずれ漸減して消滅する可能性も高い。何より二年が原則の仮設住宅にいつまで住めと言うのか。被災地で福島県のみ自殺が多いことにも恐らくこの「放置」が関係している。
 悪いことばかりじゃないだろう、という声が聞こえてくる。確かに県内にはお金が大量に動いているようだ。政治や行政にできることはお金を廻すことくらいだしやむを得ないが、問題はそのお金の分配の在り方である。除染一つとっても一次請けから最近では五次請けも普通である。元請け四万円以上から最低七千円まで、このありありとした格差のままに作業は突き進むしかないのだろうか。


変らぬ「経済教」への信心


 オリンピックの開催決定、そしてTPP妥結。いずれもお金の総量を増やし、分配格差も増やすやり方である。これが政治とは思えないが、国も「勝組」になるのに必死なのだから、国民も戦って勝てということらしい。
 原発事故後、国は負のイメージを極力糊塗しようとする。早すぎた収束宣言。アンダーコントロール発言など、福島県から見ていると嗤いさえ洩れる。汚染水は海に流すしかなく、中間貯蔵施設の土地買収も進まない。たとえば人口が最も多い浪江町など、宅地除染は二割しか終わらず、国が示す平成二十九年三月という帰還目標にも、「机上の空論」だと怒りの声があがる。ここでは、中間貯蔵どころか、仮置き場の整備さえなかなか進まないのである。
 全国版のニュースでは、あまり流れない悲痛な情報だが、被災地の牛たちは吹き矢、槍、銃などで筋弛緩剤を打たれて最終的には薬殺され、今は混血の猪豚やサルが空家を荒らして困っている。県外に出て行った家族とは連絡もとれず、ほとんど思想信条の違いともいえる「分断」の壁は厚くなるばかり。そんな負の遺産をたくさん残したのが原発事故だったのである。
 さて、我々は変わったのかと考えると、どうもそうは思えない。重い遺産を両手で抱えたまま、額に札束を載せられている。足許の見えない苦しい姿勢だが、それを強いる「経済教」への信心は堅固で変節などありえない。おそらく変わるのは、遠からずもう一度原発事故を経験してからだろう。何と慎重で信心深い人々であろう。

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