「日米地位協定見直すべき!?」と 婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑


江崎鉄磨沖縄担当相の失言?が問題になっていますが、こちらの「日米地位協定を見直すべき」発言が本気なら、安倍首相は良い意味で「とんでもない人」を選んだことになりますね。正直に〇〇がつくようなお人柄に見えますので、期待しています。

日米地位協定見直しを=江崎沖縄相
時事通信 8月8日


 江崎鉄磨沖縄担当相は8日の閣議後の記者会見で、在日米軍の法的地位などを定めた日米地位協定を見直すべきだとの考えを示した江崎氏は米軍輸送機オスプレイの墜落事故を踏まえ、「もう少し見直さないと(いけない)。直すところは直すという交渉に(しないといけない)。門外漢だが私はそういう気持ちを持っている」と述べた。   江崎氏は「沖縄県民の気持ちを政府がしっかり受け止めながら、米国に言うべきことは言う」とも強調。ただ、見直しが地位協定の改定か、運用見直しかは明確にしなかった。(了)

●ところが、残念。閣内不一致という批判にさっそく後退。今朝の朝日新聞デジタルによりますと「江崎・沖縄北方相、「少し見直し」発言釈明 地位協定 」というタイトルで「約4時間後、就任後初めて訪れた那覇市で、記者団に発言について自ら説明。「地位協定については安倍政権で2度にわたり、大きな見直しを行った。安倍政権においても目に見える改善を積み上げていくなかで、日米地位協定のあるべき姿を追求していくとの姿勢であり、その方針に沿ったものだ」と、一方的に手元のメモを読み上げた。」とのこと。わずか数時間のぬか喜びでした。でも、分かりませんね。74歳の抵抗、注目です。

◎さて、昨日のブログ<「告白・満蒙開拓団の女たち」(Eテレ)と「レイプは魂の殺人:詩織さん心境を語る」>のコメント欄でご紹介いただいた「かにた婦人の村」の記事は、以前にも教えていただいて、蛙ブログでは「石の叫び」を引用させていただきました。それが、2013年の5月のこと。この時は、橋下氏のトンデモ発言があったのでした。そのことも含めて、詳しくは、こちら:蛙ブログ(2013年5月28日)の「日本と韓国の元従軍慰安婦の告白と庭の花々」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20130528/1369707450
◎その時の引用元の「ほのぼの日記」さんのブログはコチラ:2006年の記事採録のきっかけは、ほのぼのさんも、維新の会共同代表・橋本徹氏の「従軍慰安婦」発言でした。(2013年05月28日 婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑:http://d.hatena.ne.jp/miyotya/20130528
◎↑この元記事の「石の叫び」を含む「戦争遺跡めぐり」(2006年5月1日)を引用です:

☆婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑



婦人保護施設「かにた婦人の村」「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑に向かいました。
傾斜30度ぐらいの石畳の曲がりくねった坂を、息を切らしながら上がって行きました。
山の斜面に水仙や淡い色のすみれが咲いており、心なしか寂しげでした。
1956年(昭和31年)に売春防止法が制定され、性病や知的障害になった慰安婦の安住の地を作ってほしいと、深津牧師の強い働きかけで1965年(昭和40年)に婦人保護施設「かにた婦人の村」が開設されました。当時のお金で1億円かかりましたが、国が出したのは1,000万円だけで、残りの9,000万円は世界中のキリスト教の人々からの寄付金でまかなわれたそうです。
村にはみかんの木が沢山植えられており、黄色く熟した実がたわわに実っていました。
入所している人達は多くのボランティアの方達のお手伝いを得て、出来る範囲の自給自足の暮らしをしているそうです。
入所者が作った手工芸品なども道の駅などで販売されています。
村では今でも100人ぐらいの方達が生活しておられるそうです。


「噫(ああ)従軍慰安婦」の石碑がありますが、この「噫」という意味は、あッ、あッ、と苦しくて喉から声が出ない事を表しているそうです。
戦後40年近くを経て、1984年(昭和59年)に城田すず子さん(仮名)という、元従軍慰安婦の胸を引き裂くような告白(石の叫び)に心を打たれた深津牧師が檜1本の碑を建てました
その後さらに、全国166人から浄財が寄せられて、1985年(昭和60年)に「噫(ああ)従軍慰安婦」の石碑が建立される事へと発展したそうです。
石碑は、館山市内が一望できる小高い丘にひっそりと建ち、平和を願っているように見えました。

石の叫び
戦後40年、ひとりの女性の告白より


「深津先生へ・・・軍隊がいるところには慰安所がありました。
看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです。
兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円の切符を持って列を作っています。
私たち慰安婦は死の影とともに横たわっていました。
私たちは洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。
なんど兵隊の首を切ってしまいたいと思ったか知れません。
半狂乱でした。


戦争が終わって40年にもなるというのに、戦死した兵隊さんや民間の人のことは各地で弔われるけれど、戦争で引っ張られて行った慰安婦に対する声はひとつも聞えてきません。
中国・東南アジア・南洋諸島アリューシャン列島で、性的欲望のため体を提供させられた娘たちは、死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様です。
途中で足手まといになった女はほっぽり出され、荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく、野犬か狼のエサになり骨はさらされ土になり、粉々に砕けた手足は陣地の表示板になりました。


それを私は見たのです。この目で、女の地獄を・・・
戦後40年が過ぎても健康を回復できない私ですが、今は幸せです。・・・
1年ほど前から、祈っていると、かつての同僚の姿がまざまざと浮かぶのです。


どうか鎮魂の塔を建ててください。
それが言えるのは私だけです。
生きていても、そんな恥ずかしい過去を話す人は誰もいない
でしょうから・・・

※石の叫びは「NPO法人 南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」様よりご了解を得て掲載致しました。


1945年8月15日終戦、9月2日に降伏文書調印式が行われた翌日、9月3日午前9時20分に、米軍3,500人がここ館山に上陸して、4日間、本土で唯一「直接軍政」が行われたという事は、ほとんど知られておりません。
短い時間の中で、貴重なお話を聞いたり戦争遺跡を見学して、房総半島にこんな歴史があったなんて驚きとともに、戦争に対する怒りは筆舌に尽くしがたい思いがありました。
複雑に多様化した社会で、ともすれば命が軽んじられる風潮がある中で、私達はもう一度、命の重さ、平和の大切さを考えてみる必要があるように思います。
館山ユネスコ協会の皆さんの、平和に対する「心の中に平和のとりでを」という、ユネスコ精神にあふれた熱い思いに見送られて、館山を後にしました。
★引用元:「みよちゃん通信」さんの「ユネスコ研修視察『戦争遺跡めぐり』(2006年5月1日)http://www11.plala.or.jp/miyotya/syuki37.htm

◎石碑の写真がないかとネットで探していると2014年の「千葉民放」の記事が見つかりました。
とても詳しい内容で写真もコピーできましたのでそっくり引用させていただきました。橋下徹氏の発言についても書かれています。引用元:http://jcp-chiba.web5.jp/minpo1208/hito/hito2013/hito140413.html

慰安婦の慟哭が聞こえる◇かにた婦人の村_天羽道子さん
ちば民報 2014.4.16



館山市海上自衛隊館山航空基地をみおろす小高い丘の上に、長期婦人保護施設「かにた婦人の村」(設置経営者・社会福祉法人ベテスダ奉仕女母の家・大沼昭彦理事長)があります。ここは旧海軍砲台跡(約3万坪)で、その敷地の中に「従軍慰安婦の碑」が建っているというので、お訪ねしました。応対してくださったのは、創設者の深津文雄牧師の後を継いで長く施設長をなさっていた天羽道子名誉村長(87歳)。高齢を理由に、昨年やっと新施設長と交代されたばかりです。


貧しいだけでない


「かにた婦人の村」は、65年に厚生省の認可を得て婦人保護施設として設立されました。これまで、22都道府県からのべ184名を受け入れてきました。その後、他の施設に41名が移り、73名がここで亡くなりました。現在、女性70名が職員18名とともに暮らしています。生活費は国と県の補助金や寄付金で賄われています。昨年からは20〜30代の若い人も迎え入れ、現在23〜91歳 (平均年齢68歳)の入居者がいます。
 敷地内には、農園、作業場、旧家畜舎(高齢化で面倒がみれなくなり、現在は飼っていない)、8つの寮、宿舎、食堂、教会堂、事務所等が点在しています。入所者はそれぞれ自発的に編み物、農耕、園芸、陶芸、製菓など12ある作業班の好きなところに出て作業をします。この敷地には、塀も門もありません。記者たちが訪れた際、事務所棟は無人でしかも鍵がかかっていませんでした。そこに、キリスト者の人々の善意を信じる姿が体現されていて、驚かされました。


「かにた婦人の村」には前身があります。58年に設立され、東京都練馬区にあった「いずみ寮」です。「いずみ寮」は、56年の売春禁止法の制定とその完全実施(58年)を受け、元売春婦を早期に社会復帰させるため、都の委託で作られた7つの施設のうちの一つで、深津文雄牧師が設立しました。しかし、早期の社会復帰が困難な人々がいました。ひとりの人間が苦界に身を沈めるには、ただ貧しいだけではなかったのです。果たせるかな、彼女たちの大部分は何らかの知的・精神的障害(無惨な体験によるトラウマ等)を抱えていたのです。簡単には社会復帰できそうもない人々のため、深津牧師は日本で初めて、「長期」と特記された婦人保護施設をこの館山の海軍砲台跡に創設したのです。それが「かにた婦人の村」です。



真摯に向き合う


天羽さんは戦後、キリスト者として深津牧師のもとに通っていました。そこで、ドイツの奉仕女の話を聴き奉仕女に志願しました。48年、23歳の時です。終戦直後の日本には、浮浪児や戦争で傷ついた人がたくさんいて、胸を痛めていたのです。深津牧師から、看護の勉強をして準備することを勧められました。そして54年から、女性の保護事業に本格的に参加。58年に創立された「いずみ寮」、78年から「かにた婦人の村」の職員となり、ここで36年間を過ごすこととなったのです。


天羽さんは最近、胸を痛めていることがあります。それは、昨年の橋下大阪市長の「慰安婦は必要だった」との発言と、その後の日本の動向です橋下発言に直面した時、日本軍によって傷つけられた女性の尊厳と名誉の回復をこそ願い続けている、元慰安婦の方々を一層傷つけることになってしまったと、なぜ思い至らないのかと。そして、橋下発言を生み出す土壌が日本の国の中にあることに胸がつぶされそうになりました。わが国に「買春」を許容する風土と、女性蔑視と差別のあることに思いを至さなくてよいのか。このことに眼を向けなければ、解決していかないと思ったのです。


日本政府は今、韓国の元従軍慰安婦の訴えを「もう終わったこと」とつっぱねています。しかし、この問題に時効はありません。朝鮮の12〜14歳の少女まで強制連行(拉致)し、慰安婦にしました。日本人が今、北朝鮮拉致事件の一刻も早い解決を願い、拉致家族の悲しみを共有しているとき、「同じ悲しみを韓国・朝鮮の人たち(元慰安婦の家族)も抱いているのではないか」と、私たちは想像しなければなりません。日本政府はがこの加害の歴史に真摯に向き合ってほしいと切望しているのでした。



敷地山頂に建てられた従軍慰安婦の碑


実は、「かにた婦人の村」の入所者だった城田すず子さん(仮名)が、自分が従軍慰安婦だったことを、当時の施設長だった深津牧師に告白していたのです。そこで初めて慰安婦の存在を知った天羽さんは、「ショックを受け」ます。この告白の記録は今日「マリヤの賛歌」(城田すず子著・かにた出版部・1500円)として、71年に出版されました。


その中で城田さんは、被害者でなければ到底説明することができない証言をおこない、「オンナには地獄だった」と慰安所における強制使役の真実を明らかにしたのです歴史学者は、彼女のような「日本女性」は数万人はいただろうと考えていますが、名乗り出て自分の体験を話した日本人「慰安婦」は城田さんだけでした。


城田さんは生前、「同僚の慰安婦たちの悲鳴が夢に出てきて、うなされる」と深津牧師に手紙を出し、「どうか慰霊塔を建てて下さい」と訴えていました。この城田さんの思いを知った深津牧師は、85年に山頂に従軍慰安婦の碑を建てたのでした。この「慰安婦」たちの悲劇が国際問題となったのは、「かにた婦人の村」で20年近く暮らし、93年に亡くなった城田さんの死の直後からです。天羽さんは、この城田さんの死を看取ったのです。
碑が建つ山頂に天羽さんと登りました。そこは、館山の市街と海が一望できる場所でした。そこに「噫(ああ)従軍慰安婦」とだけ刻まれた、高さ2mの石碑が建っていました。その「噫(ああ)」という文字からは、「慰安婦」たちの慟哭が聞こえてくるように感じられたのでした。