「この国の近未来にある『荒涼』と『仄光』」と水野和夫「閉じてゆく帝国と…」(内田樹)

◎放ったらかしにしていた「サンデー毎日」(7月30日)の内田樹氏の記事、やっととりかかることに。タイトルが「この国の近未来にある『荒涼』と『仄光』」と言います。「仄光」は、ほのかな光ということですが、読み方が難しい。調べると、「そくこう」と読むらしい。リード部分を書き写すと:
安倍政権は目先の経済成長と改憲ばかり執着しているように見えるが、この国がほかに深刻な問題を抱えているのは知られている通り。「少子高齢化と人口減」「地方再生」も喫緊の課題だ。このままだと、この国はどうなるのか? 内田樹氏が読み解く。
大見出しは、「政官財が牽引する日本のシンガポール」と書いてあります。小見出しは三つ:「このままでは地方が消えていく」「『経済成長』一点張りの行方」「地方移住は”未来の解”の一つ」です。それでは、日本の将来、未来は一体どうなるのか?関心ある方は是非読んでみてください。 

◎最初の小見出しに入る前に、内田氏は、奈良の山奥の集落で都会から移住してきた若者たちと話し合う機会があり、その時のことを書いておられます。2015年末の毎日新聞明治大学の共同調査の発表によると、14年度に地方に移住した人が1万1735人。09年度から5年間で地方移住者は4倍以上に増えたという。これに行政の支援を受けない移住者やアンケート未回答の自治体もあるので、移住の実態は明らかではない。問題は、メディアと政府の無関心の方にある。
で、若者たちに、これから先の見通しについて意見を求められて、内田氏は、移住者が歓迎されるのは「限界集落化という地方の窮状ゆえで、『もう時間が残されていない』という高齢者の持つ危機感ゆえである。このような「チャンス」は長くづつかない。「脱都市」志向は文明史的出来事で、これからも続くものが出るだろうが、「限界集落崩壊寸前」という事態にはタイムリミットがあるから」と答えています。

後半部分を書き移してみます:


経済成長」一点張りの行方


(前略)
「採算が合う合わない」ということを唯一の物差しにして、公共サービスの打ち切り・縮小を続けていれば、100年後の日本は「そういう光景」になる。厚労省の中位推計によれば、100年後の日本の人口は約5000万人。今から700万人ほど減って、日露戦争のころの人口にまで縮減するのである。 その5000万人が明治時代の日本のように列島各地に分布し、そのころのような穏やかな風景を取り戻すことになるのか、あるいは今私が描いたようなディストピア(注・地獄郷⇔理想郷・ユートピア)になるのか、それはまだわからない。だが経産相国交省が描いている未来社会は「ディストピア」のほうである。(かつて里山からコンパクトシティに移住したように、今度は次の「もう少し大きい地方都市」への移住が促され、いずれそこも人口減に。今度は「首都圏」への移住が促され、最終的に首都圏に列島の人口の大部分が集まり、そのほかには「無住の荒野」が広がる。)<(注)は「サンデー毎日」誌の欄外のもの)>


 私は個人的にこれらの政策を「日本のシンガポール」と呼んでいるが、政官財が日本の「明日の姿」として合意しているのはその方向と断じて間違いない。 シンガポールはご存知の通り、国是が「経済成長」であり、すべての社会制度は経済成長に資するか否かを基準に適否が決定される。だから、建国以来事実上の一党独裁であり、治安維持法によって令状なしで逮捕拘禁ができ、反政府的メディアも反政府的な労働運動も市民運動学生運動も存在しない「世界で一番ビジネスがしやすい国」である
 しかるべき筋に通じて、権力者によって「身内」認定されれば、面倒な手続きも審査も「岩盤規制」もなしに利益の多いビジネスが始められる環境のことをもし「ビジネスがしやすい国」と呼ぶのだとすると、森友学園加計学園問題のプレーヤーたちがどういう社会体制を理想としているかはおのずと知れる。



地方移住は”未来の解”の一つ


 地方移住する若者たちになぜメディアも行政も関心を示さないのか、なぜ里山をもう一度豊かな故郷に蘇生させようとする彼らの願いに対して国を挙げての支援体制を整えようとしないのか、その理由は以上の説明で大体ご理解いただけただろうと思う。
 地方移住者たちは直感的にそういう生き方を選んだ。それは経済成長が止まった社会において、なお「選択と集中」という投機的な経済活動にある限りの国富を投じようとする人たちに対抗して、まだ豊かに残っている日本の国民資源、温帯モンスーンの豊饒な自然、美しい山河、農林水産の伝統文化、地域に根付いた芸能や祭祀を守ろうとする人たちが選んだ生き方である


 先月号の『フォーリン・アフェアーズ・リポート』では、モルガン・スタンレーのチーフ・グローバルストラテジストという肩書のエコノミストが、経済成長の時代は終わったという「経済の新しい現実を認識している指導者はほとんどない」ことを嘆いていた。経済目標を下方修正しなければならないにもかかわらず、政治家たちは相変わらず「非現実的な経済成長を目標に設定し続け」ている。
 中でも質の悪い指導者たちは「人々の関心を経済問題から引き離そうと、外国人をスケープゴートにしたり、軍事的冒険主義に打って出たりすることでナショナリズムを煽っている」(2017年6号、21〜22頁)。
 まるで日本のことを書かれているような気がしたが、世界中どこでも政治指導者たちの知性の不調は似たり寄ったりのようである。
 だが、このエコノミストのような認識が遠からず「世界の常識」になるだろうと私は思っている。今求められているのは、この後はじまる「定常経済(人口規模や資本が定常状態にある経済。経済活動が繰り広げられているものの、その規模は拡大しない)の時代」において世界標準となりうるような、「オルタナティヴ(代案、新しい形)」を提示することである若者たちの地方移住はその、「オルタナティヴ」のひとつの実践である。
 海外メディアがこの動きを「超高齢化・超少子化日本の見出(みい)だした一つの解」として興味をもって報道する日が来るのはそれほど遠いことではないと私は思っている。」(終わり)

◎最後のところで出てくる「定常経済」という言葉は、水野和夫氏の「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」にも出てくるようです。これからの未来の予測に関して、内田氏の読後のツィートがありましたので、並べておきます。


内田樹
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 @levinassien 8月6日

水野和夫さんの『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』を読了グローバル資本主義の終焉、「閉じてゆく地域帝国」への世界分割、定常経済への移行、地方分権、配当ゼロの株式会社、国債保有者への社会保障実物給付への切り替えなどの具体的な提言に深く納得しました。


・「21世紀は政治的には地域帝国であり、経済的には定常状態、すなわち資本蓄積をしないという方向性を指摘することは可能だと思います。この二つの方向性をベースにして、あとはどういう社会システムを構築するかを考えるのが21世紀最大の課題です。」(234頁)


・「そうした課題に真摯に取り組むことを避けてアジアの近隣国との関係を悪化させ、財政を顧みずに経済成長だけを追求する日本は、いまだに勝ち目のない近代の延長戦を続けているに過ぎません。」それは家の土台が崩れかけているときに必死に外壁を補強しているようなものだと水野さんは書いています


姜尚中さんとの『アジア辺境論』でも、帝国化・中世化・定常化は21世紀の根本的なスキームであるという点で合意しましたこの文明史的転換期に際して、何より大胆な創意工夫と発明の才が求められているときに日本の政治家と官僚が「このありさま」であるというのは歴史的悲劇という他ありません


とはいえこうやっていまだ少数ながらも「帝国化・中世化・定常化」を不可避的な趨勢と見て、次代の社会システム論を構想している人たちが全世界で着実に増えつつあることは間違いありません。この論件についての生産的な対話が深まることを願っております。

内田樹”特集”のついでに、もう一つ。未来予測に関する発言と、共産党に「社会民主主義政党に近づくように」という助言?です。

経済成長が終わり、資源のフェアな分配と、社会的弱者を「とりこぼさない」政策を進めようとするなら、社会民主主義の古ぼけた旗の埃をはたき落として掲げ直し、「みんな同じくらい貧乏になる」社会をめざす以外に現実的な選択肢はないからである。ネトウヨたちの「左」に対するあの異常な憎悪は「もうすぐ到来するぱっとしない時代」の予感がもたらしているのである

これは、内田氏が「少し前に「赤旗」が取材に来て、共産党の党勢はこれから伸びるでしょうかと訊かれた」とき、「共産党がこの先党勢拡大を願うならヨーロッパの社会民主主義政党に近いものになるしかないだろう」と答えたと書かれた後の文章です。(「AERA」7月24日号巻頭エッセイ/内田樹「『もうすぐ到来する ぱっとしない時代』の予感」より)
(引用元:「世相を斬る あいば達也(8月6日)」さんの「●“腹七分目” パッとしないが、足が地についた定常な成熟社会」http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/9b39bce03f259611bdd4d0401db3730d?fm=rss)
◎「社会民主主義」が出てきたついでに、民進党前原誠司氏の記事もくっつけようかと思いましたが、だらだらと長くなるので、前原氏については別の日に。前原さんは「私が目指すのはヨーロッパ型の社会です。今よりも大きな政府にして、行政サービスを充実させ、人々に希望と安心を提供していく。財源論からも逃げません」と語っています。日刊ゲンダイの”変わった”「ニュー前原」さんのインタビュー記事と、「特別な1日」さんの月曜日のブログと井出氏の「前原氏は本当に変わったか?」も読み直してみます。