村上春樹エルサレム賞授賞スピーチ

イスラエル文学賞エルサレム賞」の授賞式で2月15日夜、受賞者の村上春樹氏が記念講演をしました。そのスピーチは新聞でも取り上げられ、スピーチの一部が報道されました。今回全文を入手しましたので、拙い訳文ですが、紹介したいと思います。

その前に私の手元に3年前の日経の「私がみるニッポンの力」というコラムの切り抜きがあります。私は文芸評論家の加藤典洋の「敗戦後論」を読んで戦後日本が抱えている問題の考察に感銘を受けていましたので、加藤典洋が担当した分を残していました。

「日本が国際社会に何を発信すればいいのでしょうか?」と問われて加藤典洋が「日本は非西欧世界で近代化を遂げた最初の国だ。第二次大戦の敗戦で、欧米的な民主主義を半ば強制的にうけいれさせられた。その過程で古い価値観と戦後民主主義の衝突などに伴う苦しみと葛藤を味わった」「その葛藤を、今、民主化を強いられている非西欧世界に伝え、共感を得る努力が必要、それこそが一種のソフトパワー」と答えています。

重ねて「伝える手段はなんでしょう?」と問われて「日本の複雑さを海外に伝えている一つの例が、欧米やアジアで多くの読者を獲得している村上春樹氏の小説作品だ。『海辺のカフカ』などの最近の作品は、日本社会の中に今もある不安定感や不気味さ、不安をかなり正確に世界に伝えている」と評価していました。

私は、このあと「海辺のカフカ」を読みました。少年の父親殺しが世間でも問題になっていたころであり、この問題に対する文学者からの解答とも言われた作品だったように思います。その作家が逡巡の末にイスラエルに出かけて世界に発したメッセージがこれです。
*全文の入手先は:http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html

時あたかもイタリアでのG7後の財務・金融大臣酩酊会見が全世界に配信され、このスピーチ自体の各メディアでの取り上げ方は小さかったように思いますが、ここに一人の日本人の自分の責任範囲内での歴史的にも立派な責任の取り方を見る思いです。私たち一人一人の生き方の問題として考えてみるチャンス! 味わって、出来れば原文でも、読んでみて下さい。

Always on the side of the egg by Haruki Murakami「いつも卵の側に」
 
私は今日小説家として、つまりプロの嘘つき( a spinner of lies=嘘を紡ぐ人)として、エルサレムにやってきました。もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。ご存知のとおり、政治家もそうです。外交官も軍人もときにはそれぞれ嘘を言いますし、それはセールスマンも、肉屋も建築業者も同じことです。しかしながら、小説家の嘘は、誰からも嘘をつくことが悪いと非難されないという点でほかの人たちとは違っています。実際、小説家はその嘘を大きく上手く巧妙に作り上げればあげるほど、読者の皆さんや批評家から賞賛されます。それはどうしてなのでしょう?


私の解答はこうです:すなわち、巧妙な嘘をつくことによって‐つまり、本当のように見える作り話を拵えることによって‐小説家は真実を新たな場所に取り出してそれに新しい光を当てて輝かせることができるからです。たいていの場合、真実というのはその原初の形で捕らえて、それを正確に描写することはほとんどできません。だから私たちは隠れた場所から真実をおびき出し、それを作り物という場所に移動させ、真実を作り物の形と取り替えて真実の尻尾をすばやくとらえようとするのです。しかし、これを成し遂げようとすると私たちはまず私たちの中のどこに真実があるのかを明らかにしなければならない。これが良い嘘を組み立てるための重要な資格条件です。しかし、今日、私は嘘を言うつもりはなく、できるだけ正直であろうと思っています。一年に数日嘘を言わない日がありますが、今日はその数日の中の一日となるでしょう。


そこで皆さんに本当のことを申し上げます。かなりの人数の方々からエルサレム賞を受け取りに行かないようにと助言を受けました。なかには受け取りに行くのなら私の本を買わないと脅して警告する人さえいました。

勿論、それはガザでの激しい戦闘が理由でありました。国連の報道では1000人以上の人々が封鎖されたガザ市で命を無くしており、その多くは武装していない市民―子供や老人です。


この賞の知らせを受け取ってから何度も私はこのような時機にイスラエルに出かけて文学賞を受け取ってよいのだろうか、私が行くことが戦闘の一方に加担しているような印象を与えないだろうか、またある国がその圧倒的軍事力を行使するような政策を支持することにならないだろうかと自問しました。もちろん私はこういった印象を与えたいと望んでおりません。私はいかなる戦争にも賛成ではありませんし、私はどんな国も支持していません。そして勿論私は自分の本がボイコットの対象になることも望んでいません。


しかし、よくよく考え抜いた結果、私はここにやって来る決心をしました。この決心をした一つの理由はあまりに多くの人たちが来ないようにと助言したからです。おそらく他の多くの小説家と同じように私も言われたこととは真反対のことをする傾向にあります。もし人が「そこに行ってはいけない」とか「それをしてはいけない」と言ったり、特に警告したりすれば、わたしは「そこへ行って」「そうしたい」と思うのです。それは私の小説家としての性行であるともいえます。小説家というのは特別の人種で、本当に、自分の目で見たものしか、また自分の手で触ったものしか信じることができないのです。

そして、これこそが私が今ここに来た理由です。私は欠席するよりはここに来ることを選びました。私は見ないことよりは自分で見ることを選びました。何も言わないことよりは皆さんに話すことを選びました。

数行略


今日は直接政治的なメッセージを皆さんに伝えるつもりでここに立っているのではありません。しかしながら、とても個人的なメッセージを一つお伝えすることを許して下さい。それは私が小説を書いているときいつも心に留めていることです。私は今までそれを紙に書いたり、それを壁に貼ったりしたことはありません:むしろ、それは私の心の壁に刻まれています。それはこういうことです。


「高くて堅い壁と、それにぶつけられる卵があれば、私はいつも卵の側に立つだろう」


そう、どんなにその壁が正しく、卵が誤っていようとも、私は卵の側に立つ。他の誰かが何が正しく何が間違っているかを決めるでしょう:おそらくは時間と歴史がきめるでしょう。もし理由がなんであれ、その壁の側に立って物語を書く小説家がいたとして、そんな作品に何の価値があるでしょう。



この壁と卵の比喩は何を意味しているのだろうか? しばしば、それはきわめて単純、明解です。爆弾や戦車やロケットや白リンの砲弾が高くて堅い壁である。卵はそれらによって粉砕され焼かれ撃たれる名もなき市民である。これが比喩の一つの意味である。

しかしこれはすべてではなく、もっと深い意味を持っている。こんな風に考えてみよう。我々一人一人は実際には一個の卵である。私たちは一人一人独特で、壊れやすい殻に入った取り替え不能の(掛替えのない)精神(soul)である。これが私にとっての真実であり、皆さん一人ひとりにとっても真実なのです。そして私たち一人一人は、程度の差はあれ高くて堅い壁に直面しています。その壁には名前があります:それは Systemです。システムは私たちを護っているように思われますが、時にはシステム自身が命を帯びて(自己増殖して)我々を殺し始めたり、我々が冷酷に、効果的に、組織的に他者を殺すように仕向け始めます。〚システム=組織、制度、国家などの日本語が当てはまるが敢えてカタカナで〛


私が小説を書く唯一つの理由は個々人の精神の尊厳を浮かび上がらせ、それに光を当てることです。物語の目的は警鐘を鳴らしシステムに仕込まれた灯りをともし続けて私たちの精神がもつれたり絡んだりしないように又品位を下げないようにすることである。私は本当に信じているのです、小説家の仕事というのは、生と死の物語や、愛の物語、恐怖で叫んだり震え上がらせたり、あるいは大笑いさせる物話などの話を書くことによって一人一人固有の精神を明らかにしようとし続けることだと。これが、来る日も来る日も、私が大真面目に作り話に取り組んでいる理由です。


私の父は去年90歳で亡くなりました。彼は元教師で僧侶も兼ねていました。彼は学生時代に軍隊に召集され中国の戦闘に送られました。私は戦後生まれの子供だったので、父が毎朝仏壇の前で長い気持ちのこもったお経をあげているのを聞いていました。ある時、どうしてお経をあげるのか尋ねたら、父は戦争で亡くなった人たちのために祈っていると教えてくれました。

父は亡くなった人たち、敵も味方も両方と彼は言いました、亡くなったすべての人のために祈っていたのです。仏壇の前で座っている父の背中を見つめながら、私は死者の影が彼の周りをただよっているのを感じたように思いました。

数行略


私は今日皆さんに伝えたいことが一つだけあります。私たちは皆人間です、国籍や民族や宗教を超越して個々人であり、システムという堅い壁に直面している壊れやすい卵です。あらゆる面で私たちには勝ち目はない。その壁はあまりに高く、あまりに強く、あまりに冷酷です。もし勝利の望みがあるとすれば、私たち自身や他者の精神のその唯一無二(utter uniqueness)、取り替え不能( irreplaceability)の精神を信じることから、そしてその精神を互いに寄せ合う(joint)ことから得られる暖かさからこそ、その望みは生まれるはずです。


一寸考えてみよう。私たち一人一人は、触れる事ができる生きた精神を持っている。システムはそのようなものを持ってはいない。私たちはシステムが私たちを利用するのを許してはいけない。私たちはシステムに命を与えてはならない。システムが我々を作ったのではない。私たちがシステムを作ったのである。

これが私が皆さんに言わねばならないすべてです。


エルサレム賞を授賞できたことをうれしく思います。私は世界の多くの地域で私の本が読まれているのを嬉しく思っています。そして今日ここでスピーチの機会を与えていただけて喜んでいます。