ミニ・ラン開花 と ラフカディオ・ハーン

数日前から可愛い蕾がふっくら脹れ出して、これはもうすぐ開花!と、楽しみにしていました。
まだ寒い頃、花の終わったミニランの寄せ植えの萎びた鉢が店先に転がすように置いてありました。
どんな花なのか分らないけど、育てて、花が咲けば儲けものくらいの気持ちで買い求め、この春、株分けしました。

その一つの株に蕾が付き、昨日から咲きだしました。
      



今年7月の新聞の切り抜きから、捨てきれないのでここでご紹介を・・・
日経、朝刊(7月2日)の<仏教の「いのち」とは>について前田専學というインド哲学・仏教学者(1931年生)が書いています。
自我についてラフカディオ・ハーン小泉八雲)が「涅槃(ねはん)」という作品で書いていることの引用になります。

ラフカディオ・ハーンといえば何年か前のNHKのドラマ「日本の面影」が素晴らしかった。ジョージ・チャキリスがハーンを小泉セツを檀ふみが演じていました。ドラマはハーンを描きながら、その作品「怪談」が劇中劇として挿入されるという、内容も役者さん達の演技もとっても印象深いドラマでした。
ところでそのハーンは、西洋の「自我(エゴ)」に対して、東洋は「無我」だ、と言っています。

西洋流の永遠不滅の自我を認めてゆけば、性格、階級、民族の差別を認めない<無我>の立場に立つ仏教とは大きな隔たりがでてくる。自我というものがあったら、慈悲というような考え方は生まれてこないし、相手の立場に立つということもできない。一時期、自我の確立、などということがよく言われたが、その行きつくところは人類の滅亡以外の何ものでもないのではないか。それぞれが自我を張り上げている限り、その先には紛争や戦争以外の何ものも起こらない。

東洋思想と西洋思想が接触することによって、そんな西洋的な観念が一日も早く衰滅し、明るい結果を招くことが望まれる。でなければ、本当の意味の寛容の精神など生まれるわけがないし、世界愛の目覚めも起こらない。

「百年も前にハーンが無我説の今日的、未来的な意義を見いだし、東洋と西洋の思想が一日も早く手を握ることを望んでいたというのは、驚嘆すべきことではないかと思う」と前田氏はこのコラムを結んでいます。

私は、百年も前にハーンが気づいていたことを、日本人があの戦争に次ぐ戦争の時期に入って、負けて、それ以後、何もかも捨てて忘れて(私も含めて)来てしまったことが本当にもったいないと思います。