68年前の開戦記念日

12月8日を控えた1日前の7日のNHK番組「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか〜400時間の証言〜」を録画していましたので、一日遅れで68年目の開戦記念日の日に見ました。昨夜はSMAPの夜10時の番組のゲストに「のだめ」のコンビ・上野樹里玉木宏が出ていましたので、早く寝たいし〜ということで、こちらを見ていました。「のだめカンタービレ」は映画版が来週あたり公開ということで楽しみにしています。

日本海軍 400時間の証言」という番組はこの夏放送され、私は8月19日のブログで少しふれています。今回、この3回にわたって放送された番組の反響とともに79歳の作家、半藤一利澤地久枝の二人と昭和23年生まれで海軍資料調査会メンバーの戸高一成の3人が番組について語り合うという構成です。せっかくですので、書き留めておきます。
「400時間の証言」は昭和55から11年間にわたり130回以上、大尉から中将までの海軍OB、70代から80歳代の延べ40人が水公会で毎回3時間の反省会をカセットテープに録音したものです。
3回の番組は、「第一回 開戦”海軍あって国家なし”」「第二回 特攻”やましき沈黙”」「第三回 戦犯裁判“第二の戦争”」で、NHKへ寄せられた反響は2000件、主に社会の第一線に立つ30〜40代からが多く、今の社会と重ねての感想が多かったという報告です。組織の問題は今と変わらない、今の政治と変わらないというような感想です。

夏の番組の第一回「なぜ海軍は戦争を始めたのか」について、海軍の組織そのものに原因があるとして、組織図が示されます。
天皇の持つ統帥権を補佐するものとしての軍令部の権限が絶大なものになり、まさに”海軍あって国家なし”状態に。「軍備を増強するため、皇族の権威を利用」、「予算獲得のため、対米強硬論を主張」、「トップは長期的計画を持たず開戦を決断」、こうして「組織の利益を最優先した結果、開戦へ」という内容でした。

まず3人に番組の感想を。半藤氏は「フランクで率直、追求すべきは追求していた」、澤地氏は「本音と嘘と建前が混じりあった生の声が聞けて一言でいえば面白かった」、戸高氏は「海軍擁護の気持ちが見て取れるが、歴史を残したいという思いは立派」と。澤地さんの「戦争を始めた人は戦争を知らない人たちだ」というのが印象に残りました。戸高氏は「戦死率が高く反省会に出て話してほしい人がほとんど死んでしまって生き残った人たちは実戦を知らなかった」と。昭和5年生れの半藤氏は中2で東京大空襲を体験、余りの悲惨な体験のため25,6歳まで一切語らず、その後このままではいけないと語り始める。同じく5年生れの澤地さんは満州終戦、一年かけて引き揚げ、戦争の実態を後世に伝える責任を感じて作家活動を。
3人の論点として「皇族と軍隊」に注目が。軍司令部総長が宮様で「殿下のひと言」にだれも反対できなかったことを反省会で指摘した人がいます。
皇族の伏見宮博泰王元帥が昭和7年から9年間、軍司令部総長に在任。昭和8年には法令の改定で陸軍と対等の権限を持つに至り、海軍の権限強化がなされた。皇族を総長にしたこと自体が海軍の「謀略」であった。「陸軍も閑院宮戴仁親王参謀総長だった」(澤地氏)が、単なるお飾り、海軍の方は日露戦争に従軍した経験のあるモノ言う皇族であった(半藤氏)。

この軍司令部のもとに組織された「第一委員会」が開戦の道筋を作り、「現情勢下に於て海軍の執るべき態度」という文書で武力行使に関する決意を発表、シナリオ通りに開戦となった。皇族に責任が及ぶからと開戦で宮様は総長を退き、この第一委員会が宮様の役割を果たすことになったといえる。しかし、組織は決定するが、思考能力はない。一人一人の人間が思考しなければならないのに(半藤氏)。

もう一つの3人の論点は「排除の論理三国同盟」。第一委員会ができた年(1940年=昭和15年)、日本は独、伊と三国同盟を結ぶ。前年まで海軍は独・伊との同盟は反対であった。三国同盟は日米開戦必至として反対していた米内、山本五十六、井上成美らを排除した。「金で身を売った=予算が欲しかった」(半藤氏) その後昭和16年7月には南部仏印進駐・仏領インドシナ南部に進駐。(そしてアメリカは日本への石油輸出禁止) これも、海軍のやったこと。どこの組織でもあるが、組織内で仲良くやって出世できればよし、自分の部署がまず大事、そのために異を唱える者は排除するという「排除の精神」「排除の論理」が働く。
16年12月8日真珠湾攻撃日本海軍勝利。昭和17年2月にはシンガポール陥落。国民は興奮の真っただ中。国民の熱狂とマスコミの煽りで引き返せなくなる。昭和17年6月ミッドウエー海戦で空母4隻、3000人を失い敗戦の坂を転がり落ちるきっかけに。日本は制海権を無くし、太平洋の島々に取り残されて餓死する人多数。

最後に「反省会が伝える現代への教訓」についてという問いに、成功体験は伝えるが、失敗体験は伝えないものなのに、20年以上経って良く反省会をやったという半藤氏。身内だけだった、もっとオープンにすべきだったと厳しい澤地氏。戸高氏は日本人310万人もの人が死んでいるこんな戦争は二度とあってはならない一度きりの体験だから勉強して学ばなければならないと。
澤地さんは、「末端の人たち、死んだ人間の事を考えてほしい。敵によってではなく信頼する味方の権力によって惨めに死んでいった人たちの事を考えてほしい。メンツや競争意識で戦争を始めた人たちに、こういう人の思いは届いてないね」と。「軍馬より兵士は安い」といわれ、「一銭五厘」の葉書一枚の命とも言われた、海軍と言わず軍隊というのは末端の人の命をそんなふうにしか考えなかったと半藤氏も。戸高氏は「海軍は個人より組織という考えなので、責任も個人より組織という考えだ」と。
最後に3人からのメッセージ。「受け継ぎ、伝えることが歴史、受け継いだもの(託された海軍OB証言テープ)を伝えたい」(戸高氏)、
「戦争は忍び足でやってくる。時代の動きに何が隠れているか敏感になってほしい」(澤地氏)、
「新しい時代を作るのは若い人、選択を誤らないために一生懸命勉強してあらゆることを知ってほしい」(半藤氏)

流れる音楽は加古隆の物憂いピアノ・・・「子どもたちは大人を信じていた。戦争で亡くなった軍人、軍属は230万人、犠牲になった民間人およそ80万人、アジア諸国ではさらに多くの犠牲者が」

明治の日清・日露の成功体験が昭和の戦争まで生きていたという愚かな話。
半藤氏は「戦争が物語になってはいけない」と言われていましたが、明治の成功体験はすっかり「物語」に仕立て上げられて、
昭和19年生れの私でさえ日露戦争の英雄や広瀬中尉の「すぎの〜はいずこ〜」の歌を母から聞いて知っていました。
昭和の子供たちが戦争ごっこで遊んでナゾっていたのは日露の戦争でした。
太平洋戦争の海軍の指導者も明治の戦争の成功体験から無謀な勝ち目のない戦争に突き進んでいきました。
どんなに多くの犠牲者が出ようと戦争を止めることは出来なかったという反省会メンバーの話。
軍事予算は昭和19年で国家予算の85%だったとか。「国策となればドンドン金はくれる」という海軍さんの話も。
もう決して騙されないという終戦直後の日本国民の覚悟が私たちにしっかり伝わっているでしょうか・・・
そして私たちは若い世代にそれを伝えていけるでしょうか・・・考えてみたいと思っています