「日本と朝鮮半島2000年」(第6回 蒙古襲来と三別抄とは?)

録画で見た「第6回 蒙古襲来の衝撃〜三別抄と鎌倉幕府〜」

朝鮮半島にいた三別抄と呼ばれる人たちのモンゴル大帝国の侵入に対する徹底した抵抗の歴史と、その時日本に向けたSOSの発信を時の鎌倉幕府は見逃(無視?)したのではないか?という興味深い内容でした。
私は何年か前、友人のWさんと元寇に備えて福岡の今津浜に築かれた防塁を訪ねたことがあります。Wさんの亡きご主人が福岡へ行くなら是非ここへと勧めて下さったので、空港に降り立ったらすぐ二人でバスに乗って行きました。観光客は誰もいなくて、松林の中に金網が張ってあり防塁の跡がありました。想像以上に立派な石垣で驚きました。さて、今回のレポーターは韓国で活躍している福岡出身の日本人女性アナウンサー。
今回も、長くなりますが、面白いので、私なりにまとめてみます。緑字は私の感想です。

第1回、1274年、「文永の役」:元と高麗の連合軍2万6000が半島の合浦(カッパ)から襲来
第2回、1281年、「弘安の役」:元と高麗、4万と中国方面の南宗と元の連合軍10万、計14万の大軍が来襲
この2回とも高麗が連合軍として入っているのは何故だろう?

長崎湾の鷹島には首崎とか血浦という名前があり、元寇の遺品(四耳壷=シジコ)が今も網にかかるという。80年代の水中調査では全長7m、重さ1トンの大碇の一部である木材部分が見つかり、推定するとその船は40m以上、100人乗り、馬と、「てつはう」という日本には無い硝石を使い、中に鉄片が入った火薬兵器を持っていた。巨大軍艦と最新鋭兵器の出現に、どんなに衝撃をうけたことか。

1206年にチンギス・ハーンが祖国モンゴルを統一したあと、第5代蒙古皇帝についたクビライから1268年、国書が届く。東大寺にある写しによると「南宋と友好関係にある日本に外交政策転換を求め、モンゴルとの親睦関係を深めたい」と丁重な文面だが、文末の「兵を用いることは誰が好むことであろうか」というのは威嚇とも取れる。これにはもう一通、高麗国王からの国書も届き、それには蒙古を褒め称えて、「一度使いを送ってみてはどうか?」という内容であった。蒙古の侵略を受けていた高麗から何故?と不思議がられた。

これより前、6Cには半島は3つの国(百済新羅高句麗)に分かれていたが、8C、新羅が統一、10Cには高麗が代わる。1231年には蒙古の騎馬軍団が侵入したため、高麗は翌年1232年、都を開京(ケギョン)から江華(江華島)(センファド)へ遷都した。本土との狭い水道は干満差が9mもあり、非常時も自給自足可能、軍人、官僚、商人が移り住み、30年間抵抗して攻め落とされなかったという。が、本土では抵抗戦があり、「高麗史」によると、半島は戦場と化し、30年間に6次、11回もの蒙古の侵入があり、20万人が捕虜となり、殺戮された者数え切れず、骸骨が野を覆ったという。

30年の抵抗のあと、1259年、高麗はついに蒙古に降伏、臣下の礼をとった。1260年、皇帝クビライが年号を至元とし、4年後、帝国の首都を大都(北京の原型)に移し、中国様式の大明殿を建設。銀を国際通貨とし、日本を臨む巨済(コジェ)島(九州まで200km)まで使いが来た。日本に交易を求めて、文永の役の6年前の1268年、クビライは高麗に強制して高麗の名で国書を日本に書くよう求めたわけである。

ところが、3年後、同じく高麗からもう一通の国書が届く。今度は前回とは全く異る内容で「食糧と救援の軍隊」を乞うものであった。これが高麗の日本にむけてのSOSではないかと見られる国書である。70年代に「高麗牒状不審条々」といって、国書の疑問点を箇条書きにした文書が東京大学の歴史資料編纂所で見つかった。ここに12か条の疑問点が記されている。例えば1.前回は蒙古の徳を記しているのに、今回は野蛮としている、2.年号の至元が今回はない、3.カンファドからチンド(珍島)へ遷都している。この国書は高麗が分裂し、一方がその正当政府だと主張しているのだ。
実は1270年、高麗に元の都・開京へ戻れという命令がでたが、「国を護らんとするもの結集せよ」と蒙古抵抗の呼掛けが出され、土地台帳も焼き払い、身分制度もなくすという新しい政府構想を持った一団が半島南部の珍島へ移り、臨時政府を作った。左別抄、右別抄、神義抄からなる三別抄という高麗王朝を護る軍人集団が出来て、将軍はペ・ジュンソン、高麗史では反逆者となっている人物。三別抄を支持したのは下層の人たち、奴婢や農民の一般民衆であったという。

さて、13世紀(C)鎌倉幕府南宋と活発な交易をしており、高麗とは貿易をしていなかったので関心がなかったのか、あるいは朝廷から幕府への権限移行期で外交文書の伝達(九州の「鎮西」から、幕府の京都における出先機関の「六波羅探題」経由、鎌倉の「幕府」、それから又京都の「朝廷」という流れ)が上手く働かなかった為か、第8代執政・北条時宗は、南宋の僧の「蒙古は野蛮」という助言?もあってか、国書に対して返事をせず。朝廷も高麗王朝の分裂を把握できず返事をせず。しかし、この高麗の謎の国書の噂は市中にも。ある寺の僧の中には高麗の分裂を察知して、異国の侵略が鎮まるのを祈願した者もいたという。だが、日本は、この朝廷と幕府の二重外交システムのため、三別抄からのSOSに対して連帯・支援の判断には至らず、三別抄は新国家樹立ならず、歴史から消えることに。

1271年、蒙古はチンド制圧。クビライは国名を「大元」とする。ここに帝国の版図は中国と半島、インド、アフリカ大陸をカバーし、陸上、海上の交易ルートを押さえることに。この上、日本も加えたいとハッポ(合浦)に日本攻撃の為の造船工事を始める。一方、幕府は権力闘争に明け暮れ、1272年には身内の二月騒動が。この頃、チンド制圧後の三別抄は済州(チェジュ)島に移り、約300里の巨大な長城を島の海岸沿いに築き、激しい抵抗をしている。このためクビライは日本侵略用に準備した蒙古軍をチェジュ島へ回し、幸いにも蒙古日本襲来の時期は延期された。
1273年、チェジュ島に蒙古と本土の高麗軍が上陸、三別抄の足掛け4年にわたる抵抗は終止符を打つことに。1274年、文永の役(第一回蒙古襲来)。集団戦法や毒矢や砲弾などの世界最新鋭の武器は鎌倉武士に衝撃を与えたが、わずか1日の戦闘で元軍の圧勝。しかし、翌日、忽然と蒙古軍は引き上げることに。
三別抄の蒙古に対する徹底した抵抗は、蒙古軍の日本襲来の時期をずらし、蒙古軍を消耗させ、6月の高麗王の死去もあって、早期の撤退を余儀なくさせたと言える。
土に埋まった現在の様子  金網で保存された防塁跡


文永の役の頃、元は別の戦争をしていた。中国・南宗への攻撃をしかけ、難攻不落の襄陽を投石器などで攻撃、1276年、襄陽陥落、揚子江を制圧し、ここにユーラシア大陸の支配が完成する。幕府は蒙古の再襲来に備えて福岡県の今津防塁を築造。博多湾岸全域全長20kmにわたって、九州全域から御家人を集め半年の突貫工事で完成させた。1281年、弘安の役、二度目の蒙古来襲。兵力14万の蒙古軍に対して、防塁の効果や鎌倉武士の奮闘と台風で、蒙古船団は壊滅。翌年1282年、犠牲者を弔うため円覚寺を建て、その2年後、元寇に翻弄され続けた時宗は34歳で死去、この寺に祀られている。

蒙古は南宗を破った後も野望をあきらめず、日本と東南アジアに進出をはかり、日本への第3次の準備を始めた。1279年7月、交趾(こうち)今のベトナムに遠征。1288年、大越(ダイエツ)の「バクダン川の決戦」では川の干満を巧みに利用して蒙古に勝利した。川床から多数の直径20cm、長さ2mの杭が見つかっている。干潮時に杭を立て、満潮時に敵艦をおびき寄せ、干潮時に襲った。このときクビライは日本に渡る蒙古軍を呼び寄せ、日本への3度目の遠征は断念された。1294年、クビライ80歳で没している。ベトナム国立歴史博物館副館長は、この時から「弱いものが強いものに勝つ」「知力によって武力に勝つ」という精神が受け継がれたと話していました。アメリカがベトナム戦争で勝てなかったのはこういう歴史を知らなかったからかもしれませんね
13C、モンゴル帝国は世界帝国になり、日本にも2回の襲来があったが、三別抄の抵抗やベトナムの抵抗で、3度目の日本来襲は免れた。しかし、日本では、称名寺にある日本図(龍が日本の周りを護るように囲んでいる)が示すように、日本はどんな危機があっても神風で救われるという神国思想をもつようになったり、蒙古をムクリ、高麗をコクリと呼んで一段下に低く見るようにもなった。一方、日元貿易は活発になり、唐からの文物が入り、「唐物荘厳」で飾り立てるようにも。

韓国側にもたらした教訓としては韓国の学者があげたのは、長期にわたる抵抗によって民族的危機意識が高まった。高麗と日本がもっと親しくしていれば、モンゴルに対しても共同で対処できたのでは、平時から交流して近い関係にあれば危機に直面しても助け合えるのでは、と。

沖縄にある初期琉球王の墓にハスの花模様の瓦があり、高麗瓦ではないかといわれている。
1273年、済州(チェジュ)島で徹底抗戦の末滅んだ三別抄の残存武隊が沖縄に渡ったのではないか・・・
というのも、1273年以降、沖縄の城郭文化に著しい発展が見られるから
波に消えた不屈の精神が歴史の中に息づいているのかも・・・・以上。

高麗が元に屈服した貴族中心の本土政府と、下層の一般民衆が支持した臨時政府に分裂していたこと。その、両方から鎌倉幕府に国書が送られていたこと。初めて知ることばかりです。臨時政府側の三別抄という軍事集団の徹底した抵抗のお陰で、蒙古襲来が延期されたこと、又その後今のベトナムあたりの大越の戦闘が日本へ向かう予定の蒙古軍団を引き寄せたことなど、日本の歴史が世界史と関連して語られるのは本当に楽しいです! 
それと気になるのは、勝った後の日本人の空威張り状態というかノボセ上がりが、2度の元寇を何とか凌いだ後にも見られます。これが、また日清・日露で輪をかけたようになり・・・昭和で負けるまで、世界の中の日本の力が実際はどうなのか、分からなくなったというか、考えなくなったのですね〜