◎まず、日本アカデミー賞で8冠達成の映画「ドライブ・マイ・カー」が、英国アカデミー賞の非英語作品賞を受賞。アメリカのアカデミー賞発表は28日かな?
映画「ドライブ・マイ・カー」、英アカデミー賞で黒澤明監督「乱」以来の非英語作品賞 (msn.com)
◎プーチン、正気じゃないと思ってしまいますが、やっていることはつくづく日本での戦争中と同じだと思います。ところが、侵略されているウクライナの様子を見ても、米軍の爆撃を受けていた日本の状況と重なります。戦争とは、侵略する側も侵略される側も民衆側の様相は犠牲者だという点で同じだなと思います。それなら、命を奪われることからは避けないといけないのではと考えたり。今現在命がけで闘っているウクライナ、ゼレンスキー大統領はじめ国を挙げて侵略に抵抗しているウクライナに世界が支援するのは当然ですし、個人としても赤十字やウクライナ大使館に寄付もしています。でも幸い戦地からは遠い日本で、もしものときはどうすべきか、自分なら何を選ぶかは考えてもいいのでは:
私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対してどう向き合うべきか
(想田和弘)
ロシアによるウクライナへの侵略行為は、人道的にも、国際法上も、許されぬものである。
したがって国際法的には、主権国家であるウクライナのゼレンスキー大統領には、ロシアに対する「自衛のための戦争」を遂行する権利があるのだろう。だから彼が自衛戦争を行うと決断したことについて、第三者は基本的に、それを尊重するという立場以外を取ることは難しいのかもしれない。
しかし一方で、個別的自衛権を行使し、ロシアに対して徹底抗戦するという彼の選択が、本当にウクライナの人々を守ることになるのかどうかについては、それとはまったく別の問題として、現実を直視しながら検討せねばならない。
なぜならその問題は、軍事力が支配するこの野蛮な世界に暮らしている私たちにとって、まったく他人事ではないからである。
私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対して、どう向き合うべきなのか。
やられたから、やり返す。
それは当然の権利のように思えるし、先述したように、国際法上、主権国家には自衛権があるとされている。
しかし問題は、繰り返すようだがそれで本当に国や国民を守れるのか、ということだ。
というのも、やられたからやり返せば、相手も当然、さらにやり返してくるのが物事の常である。それに対してやり返せば、相手もさらにやり返してくるだろう。
実際、ロシアとウクライナはそのようにして、恐るべき暴力の連鎖に陥ってしまったように見える。NATO諸国はウクライナに武器を供与するらしいが、それは火に油を注ぐようなものであろう。下手をすると、この戦争はシリアやイラクやアフガニスタンの戦争のように何年も続き、ウクライナは焦土と化すのではないかと懸念している。
忘れてならないのは、戦場となっているのは、誰もいない無人の荒野ではないということである。それはウクライナの人々が日々の生活を営んでいる住まいであり、商店街であり、病院であり、学校である。戦争が長引けば長引くほど、街はむやみに破壊され、人が死ぬ。人々は生活の場を失い、大量の避難民が生じる。
3月4日には、ロシア軍の攻撃によって、ザポリージャ原発で火災が起きたという衝撃的なニュースも入ってきた。ひとたび戦争になれば、戦火は原発にまで及びうる。幸い、現時点で火災は鎮められ、原発も破壊されていないようだ。しかし一つ間違えば、ウクライナのみならず、ヨーロッパやロシアが広範に放射能で汚染される事態になりかねない。
くどいようだが、「正しさ」だけを問うならば、ウクライナの自衛戦争は大義のある「正義の戦争」なのかもしれない。そういう意味では、それを断行するゼレンスキー大統領は「英雄」なのかもしれない。
しかしその正義の戦争が、本当にウクライナの民を守ることになるのかどうか。
ゼレンスキー大統領は「国家総動員令」を発して成年男子の出国を禁じたようだが、そのように国家が国民に戦うことを強いることが、倫理的に許されるものなのかどうか。
彼はまた、市民に武器を提供して戦わせているようだが、それがロシア軍に民間人を攻撃する口実を与えないのかどうか。
今後、ウクライナ軍が奇跡的にロシア軍を撃退し、いわゆる「勝利」を勝ち取ったとする。しかしその時点で街が廃墟となり、国土が放射能で汚染され、夥しい数の人々が亡くなっていたとしたら、それで果たして「国や国民を守れた」といえるのかどうか。
全文はコチラで:第110回:私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対してどう向き合うべきか(想田和弘) | マガジン9 (maga9.jp)
🔲こちらは想田氏が薦める解説です:
「ウクライナでは市民が火炎瓶を用意しています」というニュースが流れているのを見て、私はびっくりしました。
そこまで武器弾薬がないのか。非戦闘員が戦闘に参加することを奨励しているのか(下は2022年2月28日のANNニュース)。
もしウクライナ市民の非戦闘員がロシア軍に火炎瓶を投げたら、敵と見なされ反撃されます。立てこもる建物は砲撃されます。一方、火炎瓶と小火器程度では敵の損害は軽微です。
都市戦で市民が抵抗すればするほど、敵軍は掃討戦に入ります。どこに武装した兵士が隠れているかわからない限りは、しらみつぶしに建物を襲います。制服を着ていなくても(民兵やゲリラ)公然と武装していれば正規軍兵士と同じとみなしてよい、と1910年の「ハーグ陸戦協定」は述べています。つまり攻撃されます。
特に首都はその国を制圧するための戦略的要衝ですから、治安回復のためには容赦しません。市民と都市の犠牲を最小限にするには、戊辰戦争の江戸、第二次世界大戦のパリのように、組織的に抵抗しない「無血開城」が最も賢明な選択になります。
パリの美しい市街が今日も残っていて、世界の人々に愛される観光資源になっているのは、ナチスに占領された時に抵抗せずに無血開城する選択をしたゆえであることは日本ではほとんど知られていません。
ウクライナのゼレンスキー大統領は「抵抗する」とポピュリスト政治家らしく勇ましい発言をしていますが、抗戦すればするほど自国民の犠牲は増え、生産施設は破壊されます。「愛国心」とか「祖国防衛」とか、マスコミ(あるいは国際世論、敵国)向けに勇ましく聞こえる発言が、自国民や国土を守るための賢明な戦略とは限りません。
【烏賀陽弘道 ウガ金「ウクライナ戦争の今後」】露軍キエフ包囲戦が始まる。劇場型政治ゼレンスキー | ☆Dancing the Dream ☆ (ameblo.jp)
ウクライナ政府ゼレンスキー大統領への疑問。
”ゼレンスキーは、ウクライナ市民に銃を配ったり、火炎瓶の作り方をテレビで流している。
ウクライナ国防省が、市民に「ロシア人をやっつけろ」とツイートしている。”などの報道がある。
これは、まちがっている。
近代国家の軍の第一の任務は、「自国民の生命と財産を守る」ことである。
外敵から市民の命を守ることは近代軍の第一の責務である。
そのための原則は、まず第一に、「非戦闘員を戦争に駆り出さないこと」戦争は正規軍だけで戦わねばならない。
第二に、「非戦闘員を戦闘に巻き込まないこと」非戦闘員が残っているところで戦闘をしない。
まったく戦闘の訓練を受けたことのない庶民に「銃をもて!」と言われて、ウクライナ庶民が銃を持った場合、ロシア軍はそれを敵とみなす。
1910年締結の「ハーグ陸戦条約」では、戦争に従事するときの取決め(rule of engagement)があり、「攻撃して良い対象」とは「公然と武装している相手」だと定めている。
公然と武装していることだけが戦闘員の定義であって、軍隊の制服を着ているかどうか、攻撃してくる相手かどうかさえも問題ではないのである。
ゼレンスキーが、国民に抵抗を呼びかける発言は、ポピュリズム的劇場型の発言である。
ゼレンスキーは、もともとコメディアンのTVタレントで、反ロシア発言をしているうちに人気者になった。
TVドラマ『国民の僕』という、国民がこんな大統領がいたら良いのにと思うような理想の大統領役を演じた。
つまり、ゼレンスキーは典型的なポピュリスト政治家であり、典型的なTV政治家(テレポリティシャン)である。
庶民に「銃をもて!」というのは、「ウクライナのために死ね」と言っているようなものである。
日本人ならデジャブを感じる言葉だ。日本人は「天皇のために死ね」といわれた。
米軍が上陸した場合に備え女子学生は竹槍をもたせられた。
🔲原発に関する解説記事でおなじみの大島堅一氏のツィート:
🔲「戦争前」に権力がやろうとすることは「表現の自由」「報道の自由」「言論の自由」「学問の自由」などに手を突っ込むこと: