宮崎吾郎監督の「コクリコ坂から」の挿入歌の合唱曲「紺色のうねりが」は、私たち年代にはとても懐かしい感じがします。歌詞も曲も新たにこの映画のために作られたものだというのに、です。戦前の学生の寮歌のような感じかもしれません。
昨夜、「紺色のうねりが」で検索したら、求めていた歌詞と、宮崎駿・吾郎の親子が原詩とした宮沢賢治の「生徒諸君」も載せて熱く語っているブログを見つけました。宮崎映画の熱心なファンの方のようで、読んでいますと、この映画への思いが伝わってきます。
映画をご覧になった方はコチラのブログ「一歩 日豊 散歩」さんの「コクリコ坂から 紺色のうねりが」も:(http://dtikanta.dtiblog.com/blog-entry-211.html)
以下、ブログの中から「紺色のうねりが」(作詞:宮崎駿・吾郎)と宮澤賢治の「生徒諸君に寄せる」を:
紺色のうねりが
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
われらは山岳の峰々となり
未来から吹く風に 頭をあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
透明な宇宙の 風と光を受けて
広い世界に 正しい時代を作れ
われらは たゆまなく進みつづけん
未来から吹く風に セイルをあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
作曲の谷川浩子は宮崎吾郎監督の前作「ゲド戦記」の「テルーの歌」も手がけています。
その時歌った手嶋葵さんは、今回の「コクリコ坂から」の挿入歌3曲も歌っています。
「紺色のうねり」は、考えてみれば「津波」のこと、「のみつくす日」というのは東日本大震災の日を表している事に。
原案の宮澤賢治の「生徒諸君」は長い詩で、該当する箇所(青字)に、やはり津波を表す箇所があります。
宮沢賢治の長い詩を宮崎親子が、少し古風ではあっても今風に短く、でも、原詩の精神と気概はそのままに伝えています。
その意味でも、この「コクリコ坂から」は、偶然とはいえ、今年を象徴する時代の映画になってしまっています。
生徒諸君に寄せる
生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いてくる
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や徳性は
ただ誤解から生じたとさえ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山岳でなければならぬ
宇宙は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか
あらたな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系統を解き放て
衝動のやうにさへ行はれる
すべての農業労働を
冷たく透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踊の範囲にまで高めよ
あらたな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
新しい時代のダーヴィンよ
更に東洋風静観のチャレンヂャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ
おほよそ統計に従はば
諸君のなかに少くとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただこれらを刻み出すべきである
潮や風・・・
あらゆる自然の力を用ひ尽すことから一足進んで
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか
「紺色のうねりが のみつくす日が来ても 水平線に 君は没するなかれ 」
「諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに 諸君はその中に没することを欲するか 」
〜〜 今若人にも、昔若人にも、この呼びかけが届き、その呼びかけに応えて若人が立ち上がりますように 〜〜