欠陥原子炉マークI・36年前のGE内部告発(「アメリカから見た福島原発事故」)

8月14日(日)、ETV特集で「アメリカから見た福島原発事故」という番組が放送されました。
私は録画で翌日見ましたが、ショッキングな内容でした。ブログで扱うにしても時間が掛かりそうだし、書き出したら長くなりそうだし、それまでに、映画を見たり、書きたいこともあったりで、やっと落ちついた天候と時間が持てた昨日、もう一度見始めました。
福島原発の事故を起こした型の原子炉には欠陥があるというのは、事故後読んだ数冊の本の中にも書いてあったのですが、こんなにハッキリとした問題点があったのに、何故?という思いが沸いてきます。日本の甘さ、官邸の甘さ、電力会社の甘さ、科学者の甘さ、住民の甘さ、国民の甘さ・・・にガックリきます。
東京電力が、最初、「お手上げ」といった通り、まさに想定はしていなかったけれど、起こってしまえば「お終い」という事態になってしまいました。小出裕章さんは、起こってはいけない取り返しが付かない事態、どうしてよいかわからない事態になってしまったと仰っていました。起こるはずのなかった起こってはいけない事が起こり、今、進行中です。被害の実態は今も、これから先何十年も分らないでしょう。

一週間も経った今頃ですが、番組の内容を追ってメモしていきたいと思います。

前置き(intro)
1960年代に開発されたマークI型原子炉の福島第一原発の原子炉が地震津波を受けて事故を起こし炉心溶融した。そのことで番組はアメリカへ取材に。
1.元GE原発部門の幹部:「マークIの設計が事故を拡大させた。大量の水素をうまく放出できず、圧力容器への注水も難しいから。」
2.福島の建設にも関わったGEの元技術者:「確かに地震津波で全てが破壊されると思ってはいなかった。マークIは(地震津波などの)外部事象に弱い。放射性物質を大規模に放出するような適切な設計になっていません。それが福島の事故を深刻化させる要因の一つだった。悲劇としか言いようがありません。」
3.安全性を検証していた元国立研究所の科学者:「1980年代、”マークIを廃止すべきか”真剣に検討しました。それは今も検討すべき課題です。特に地震の危険性の高い場所では真剣に考えるべきです。20年前にマークIは廃炉にすべきだった。それが正しい選択だったと思います。」
しかし、廃炉に出来ず、事故はおきてしまった。日本では長い間、原発の重大事故の可能性は低いとされてきた。しかし、アメリカ側では80年代から重大事故は起こりうると考えられてきた。(ここまでintro)



30年前の1981年、アメリ原子力規制委員会はマークIの安全性について詳細な検証を実施。40年前から原子力に関わってきたオークリッジ国立研究所がシュミレーションを行った。その時、シュミレーションチームにいた研究所原子炉研究部のシュル・グリーンさんは、「重大事故の時、マークIは他の型と比べて脆弱である事が分った。それが結論でした」と語ります。
3月11日午後2時46分、福島第一原発ではM9.0の地震によって外部から電気を供給していた設備が破壊された。外部電源喪失。ここから危機が始まる。
午後3時42分、電気が来なくなった原発に今度は津波が襲う。内部に押し寄せ多くの機器が水没。非常用ディーゼル発電機が水没、必要な全交流電源を喪失。
この事態をグリーンさんはシュミレーションしていた。「これが1981年の原発の全交流電源喪失時の分析をした報告書です。原発が電源を喪失した場合、原子炉の炉心の温度が急上昇する。喪失後4時間バッテリーで凌いだと仮定し、それが切れた事故発生後300分後・5時間後には温度が急上昇、6時間半で炉心溶融にいたり、圧力容器の底に核燃料が落ちます。その30分後には圧力容器は破損。外部電源を失ってから7時間です。8時間半で格納容器まで壊れます。」
<なぜそんな事が起こるのか?> 原子炉内部は500度の高熱で、絶えず水で冷やしているーその冷却水がストップー水が沸騰して水蒸気になり、炉心がむき出しになるー圧力容器内は2500度にもなり、溶融が始まる。実際、福島原発事故でも同じようなプロセスをたどった。1〜3号機の原子炉が外部電源を失い非常用ディーゼル発電機は津波で使えなくなり炉心溶融が起きた。それが次の深刻な事態を引き起こす。
30年前に、シュミレーションでこのメルトダウンまでの過程を熟知していたグリーンさんは、土曜日の朝テレビで事故を見ていた。「妻に、水素爆発が起こりそうだと言った数分後に、実際に水素爆発が起きた。その爆発で、深刻なメルトダウンが起きている事が分った。」


このような予測ができるのは、原子力発電所開発の長い歴史があった。それは核兵器の開発から始まった。1945年、広島・長崎に原子爆弾を投下。米ソの核開発競争のなか開発は軍事機密であった。しかし、1953年の国連でのアイゼンハワー大統領の「原子力の平和利用」宣言から「原子力の新たな一歩」が踏み出された。核兵器開発拠点の一つ、アルゴンヌ国立研究所、ここでも、原子力発電の研究が始まった。核分裂をコントロールして電気を生み出す原子力発電は核兵器の技術が元になっている。
巨大な球形のEBWR(沸騰水型実験炉)の前に立つ工学博士のウォルター・デトリッチさん。「これは、当初の古い原子炉で、日本にもあるマークIの原型です」。 実用化にあたり、マークI 型の圧力容器は、沸騰水型のものより大きく、格納容器はより小さくコンパクトに作られた。その下にドーナツ型の圧力抑制プールを作り水を入れ、高温になってもここで対応するよう工夫した。(蛙注:沸騰水型に比べて格納容器のスペースは格段に小さくなり、事故で洩れた場合、水蒸気の逃げ場が少なくなり、圧力は高まり、安全性は落ちる)
1965年、マークIの最初の1号機が作られ、以後量産され、アメリカ、日本、スペインに30基以上。



1967年、福島で建設始まる。東京電力最初の原発である。アメリカのわずか2年後、アメリカでも営業運転が行われていない段階での日本導入である。
この時、東電はGEとフルターンキーという契約を結んだ。設計から建設まで全てをGEにまかせて完成後に引渡しを受ける。
東電元副社長の豊田正敏さん:「建設の時、われわれはほとんど経験がなかった。メーカー自身(GEの下請けをしていた東芝、日立)もやっぱりダメ。原子炉の設計すら出来なかった。そういう状態でGEに発注した時、東芝や日立に原発の設計や取扱いを教えるのが条件で発注した。1号機は原発の勉強段階。GEの設計だから大丈夫。チェックする能力が日本側になかった」。
当時GEは輸出に力を入れていた。日本はアメリカについで2番目に多くマークIを導入。
元GE原発部門幹部:「日本の仕事は良いビジネスでした。日本人はとっても良い人(reasonableと聞こえた*蛙)たち。設計変更で契約にないコストが発生しても説明すれば払ってくれた。アメリカでは一旦契約を結ぶと規制の変更などでコストがかかっても払ってくれません。契約に入っていない変更はGEが支払うべきとされ、GEの原発ビジネス(フルターンキー)はアメリカでは赤字でした。しかし日本ではもうかったのです。


マークIの日本導入の10年後、アメリカで元技術者の発言が注目を集める事になります。
GEの元主任技術者デール・ブライデンボウさん。カリフォルニア在住のブライデンボウさん、住居の近くの海辺に1m以下の津波が押し寄せ流されたボートもあったと言います。「日本に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。1976年からこんな事が起きるのではないかと恐れていました。」
1976年、二人の技術者とともにマークIの構造について問題提起を行い新聞に取り上げられ大きな関心を呼んだ。「私は20年以上GEで働いてきて、危険性について自分の考えを公表すべきだと思った。」


当時マークIの安全性を検証する社内チームの一員で検証チームが注目したのは独特の形をした格納容器で、議論の的になった。このドーナツ形のものが圧力抑制プールです。独特の形は格納容器を小さくし全体をコンパクトに建設するためです。小さくしたのは建設のコストを下げ市場での競争力を高める為でした。万が一の重大事故が起こった時、十分に耐えられるか問題意識を持った。1970代初め何度も実験が行われた。その結果、重大事故が起きたとき、圧力抑制プールに想定以上の力が加わる可能性があると考えたのです。
そのメカニズムは、事故発生、高温になった圧力が発生、圧力を逃がすため、水蒸気によって高い圧力が発生、圧力を逃がすため、水蒸気をドーナツに導く、しかし、水蒸気の流れ込み方によっては圧力抑制プールが損傷する可能性を考えたのです。
水蒸気が流れ込むと、内部で泡が発生します。問題なのは水が押し上げられ強い負荷がかかるかも知れない。圧力プールを壊すかもしれない。機能が失われるかもしれない。この事は設計するときには想定していなかった。分ったのは1975年です。福島の事故では2号機で圧力抑制プールが破損したと聞いています。」福島では2号機で圧力抑制プールが損傷、それにより放射能が洩れ出したとされています。
検証結果をうけてブライデンボウさんは上層部に進言しました。「いくつかの原発は直ぐに運転を停止すべきだと思いました。安全かどうかの調査が終わるまでは電力会社に停止すべきだとの意見を伝えました。」
GEの上司にも伝えた。電力会社は「運転を停止する権限はない」と言い、上司は「そこまで悪くはないだろう」と言い、「マークIを停止させればGEの原子力ビジネスは終わりだ」と。GE社内でブライデンボウさんの進言は通らなかった
1976年2月、ブライデンボウさんは会社に辞表を提出します。「24年も働いて友人も多く、とても悲しかった。”裏切り者”と言われるでしょうし、技術者としてのキャリアも終わると思った。家のローンもあり、3人の子どももいました。仕事を辞めれば家族を路頭に迷わせる事になるかもしれません。しかし、妻の支持があって決断できました。妻は戦友です。」


ブライデンボウさんの訴えは注目を集め、連邦議会原発と安全に関する特別委員会が開かれる事に。
原発に自分たちの未来を託してよいのか。人々は原発の安全に大きな関心を持っていた。
この委員会の公聴会に呼ばれ最初に証言したのがブライデンボウさんだった。
公聴会は5日間にわたって開かれ、原発の安全性について多くの関係者や科学者が証言を行った。
この委員会で原発は安全だと論陣を張った人物がいます。マサチューセッツ工科大学のノーマン・ラスムッセン教授です。
   つづく(8月23日へ)