「40年以上の反原発・小出裕章助教」(AERAから)

AERA」の12月26日号に小出裕章さんが「現代の肖像」で取り上げられました。
記事を書いた今井一氏は1954年生まれの大阪府出身。著書に「住民投票ー観客民主主義を超えて」(岩波新書)や「『原発国民投票」(集英社新書)などがあります。東京都と大阪市の「原発投票」仕掛人の一人です。
最後の方の記事からですが、小出先生の「助教」という肩書は「助教授の略ではなくて、昔でいうところの助手のこと」で、「京大の事務方の説明では、教授は公募で採用しているのですが、小出先生は一度も応じられたことがありません」ということです。小出先生は、「助手は教員の最下層。誰かに命令されることもなければ命じることもない。私にとってはとても居心地がよい」とのこと。国立大学の京都大学原発推進の国策に反する意見を持つ科学者を、差別待遇とはいえ大学内の片隅に置き続けていたという事実は、日本の大学の一つの救いではなかったかと思います。
AERA」の記事から、反原発原子力研究者誕生までを私なりに追ってみます:

小出さんは広島・長崎の原爆投下の4年後に東京の下町で生まれ、地元小学校から私立開成中学・高校に進む。高校時代は地質学部で活動。入試直前まで地質学部部長として伊豆大島での調査研究を重ね、この年の日本学生科学賞最優秀賞をとった。
高校3年の夏休み明け、銀座の松坂屋で催された「ヒロシマ原爆展」に足を運ぶ。「ものすごい悲しみが、ものすごい期待にひっくり返ってしまった。原子力の平和利用を進めるのは、大和民族の責務だとまで考えた。」
こうして、東北大学工学部原子核工学科への進学を決めた。1969年1月、1年生だった小出さんは、テレビで東大安田講堂での学生と機動隊との壮烈な攻防戦を見た。これがきっかけで大学闘争に強い関心を抱く。「自分たちがやっている学問や研究が社会においてどんな役割を果たすのか。学生運動というのは、それを突き詰めて考えることでもあった。」
小出さんの場合はそれは原子核工学だった。旧帝国大学のすべてに設けられていたこの学科は、原子力推進という国策に正当性をもたせることが使命。これに疑問を抱いた小出さんは、国内外の学説から研究者の見解をも積極的に拾い集めて検討を重ねた結果、この分野には合理性に欠ける「安全神話」がはびこっていると断じた。そして、19歳にして自身の価値観を180度転換する。
「小出さんは一匹狼でした。どのセクトにも一度も入らなかった。たとえ一人でも自分の意志でやるべきことをやる。赤でも青でもなく、黒いヘルメットをかぶっていたのはその証です」 まもなく、反公害闘争委員会に入った小出は、自身で全国原子力科学技術者連合の東北大支部を立ち上げ、東北電力原発建設の予定地としていた宮城県女川町の人々との交流もはかった。
70年10月23日、女川の漁民が原発建設反対の総決起集会を開いた。海岸広場には2000人を超す人々が集まり、会場では夥しい数の漁船が原発反対の幟をはためかせていた。翌月から仲間と共に「のりひび」と題したビラを作り女川の人々に配布することにした。女川に現地闘争本部を置き、仙台から持ち込んだガリ版でせっせと「のりひび」を刷り、朝早くから集落を回り、町民の家を周り、ビラを手渡していった。
一緒にビラ配りをした同期のMによると、「ある日、ビラ配りをしていた時、ガタイのいい若い男が『のりひびのアンちゃんか?』と言って小出に近寄り、突然『余計なことをすんな』と唾を吐いた。小出は持っていた手拭いでそれをぬぐうと、なにごともなかったかのように次の家に向かった。全く動じなかった。意志が強く、自分で決めたことは絶対に曲げない。易きに流れ、原子力ムラに入っていった僕らとは違っていました。」
 
生涯、原発をなくすために役立つ研究を続けようと決め、小出が大学卒業後の進路に選んだのが、京大原子炉実験所だった。ここには、原子力利用に警告を発する論客が揃っていて、のちに小出や今中哲二を加え、「熊取6人組」と呼ばれるようになった。小出は、彼らと共に四国電力伊方原発訴訟や関西電力の日高原発建設問題などに取り組む中で、理論的にも精神的にも鍛えられ、磨かれていった。

この小出裕章氏の最近の発言です。
毎日放送「たねまきジャーナル」から一部を引用してみます。(「小出裕章(京大助教」非公式まとめ」の書き起こしブログ(http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65781882.html)より)

千葉「政府は来年4月1日を目処に現在の警戒区域というのを解除して年間放射線量に応じて3つの区域に編成しなおして、年間20ミリシーベルト未満の地域は早ければ来年の春から指定解除して家に帰れるようにするということなんですが。」

東日本大震災:福島第1原発事故 避難区域、4月にも3区分 「帰還困難」将来も居住制限 - 毎日jp(毎日新聞)

千葉「これは小出さんどう思われますか」


小出「もう何度も私はこの番組で聞いていただきましたけれども、え……普通の皆さんは1年間に1ミリシーベルトしか被曝をしてはいけないのです。で、私は放射線業務従事者というレッテルを貼られてる人間ですけれども、私のような非常に特殊な人間だけが1年間に20ミリシーベルトまでは我慢をしろと言われてきた、のです。え、それなのに1年間20ミリシーベルトまで普通の人々、それも子どもを含めて我慢を知ろなんてことはありえないと私は思います。えーどうしてもそんなことを言うなら、まず国会議員は家族ともどもみなさんそういうところに行くべきだと思います」



千葉「うーん。あの、これに関連して原発事故の担当大臣が、被曝量は100ミリシーベルトを上回れば疫学的にがんの発生率が高まると、それ以外なら他の要因にまみれて疫学的な数値として現れないくらいリスクは小さい。20ミリシーベルトのところで生活しても、実際には被爆量は4ミリから5ミリシーベルトだというふうに新聞のインタビューで話してるということなんですけども。」

asahi.com朝日新聞社):年間20ミリシーベルト「発がんリスク低い」 政府見解 - 社会

「もうこの認識に対してはどう思われます?」


小出「(苦笑)まあ学問的いえば、呆れ果てるしかありません。えー、疫学というものでもちろん証明出来るレベルというのはある程度決まってしまっていて、それが100ミリシーベルト、50ミリシーベルトというのはそうだろうと私も思いますけれども。えーそんなことともまた別に実験的なデーターとか生物物理学的な考え方というのがあって、放射線の被曝というのはどんなに少なくても危険があるということは現在の学問の到達点なのです」

22日(木)の放送で同席した神戸大学大学院教授の山内和也氏は、「20はもう圧倒的に高すぎます。子どもをそんなところにおいてる基準を持ってる国はどこ探してもないですよね。あの……ウクライナなんかでしたら5ミリシーベルト基準でやってますけど。子どもに対してはそれでもさらに低い被曝になるように、食品であるとか、全身の計測をするとか、そういうようなこともやってますよね。日本政府の方は何もしていないです」と発言しています。
その後千葉氏の「うーん。じゃあ、原発の担当大臣がこういう認識で、発言をしてるんですけど、それというのはやっぱり、もう認識としては大きな間違いですね」というのに答えて山内氏は、「私は間違ってると思います。ですけど周辺の学者の方がそういうふうに教えてる、んでしょうね」とも。

政府に助言している学者たちというのは、未だに事故を軽く見せようとしたり、汚染の程度を軽く考えていたりする人たちなのでしょうか。
これだけの事故、推進派や安全神話を信じてきた、あるいは神話を作ってきた学者たちの責任は免れません。
日本には40年も前から「安全神話」を批判し、原発反対で闘ってきた原子力科学者がいるのです。
そういう人たちの力を今借りなくてどうするのでしょう。