安斎育郎氏「原発悔恨・伝言の碑」と小出裕章氏「原子力の夢に挫折」

7,8年前、豊中の緑地公園で求めた大山レンゲの木に今年はツボミが3つ。

うな垂れたように下を向いている蕾の一つが咲きました。

神々しいような純白の花びらに芯の部分だけ赤い花です。

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 ◎手元に朝日新聞の4月30日の夕刊の切り抜きがあります。「現場へ!」というコラムで大きなタイトルは「3・11の悔恨 次世代へ伝える/ 被爆国日本と核の行方(4)」とあります。

取り上げられているのは3・11から10年経った今年3月11日福島県楢葉町宝鏡寺境内で行われたヒロシマナガサキ・ビキニ・フクシマを結ぶ『非核の火』」点火と「原発悔恨・伝言の碑」の除幕式です。碑にはこう書かれています:

電力企業と国家の傲岸に

立ち向かって40年力及ばず

原発は本性を剝き出し

ふるさとの過去・現在・未来を奪った

人々に伝えたい

感性を研ぎ澄まし

知恵をふりしぼり

力を結び合わせて

不条理に立ち向かう勇気を!

科学と命への限りない愛の力で!

 

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「石碑は、宝鏡寺住職の早川篤雄(81)と、京都に住む立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎(81)が建てたものだ。2人は半世紀近く原発反対運動を共にしてきた。」

10年前、私は箕面で安斎氏の講演会に参加、終わって著書を購入してサインを頂いています。その安斎氏、その後もテレビを通して福島で調査を続けて住民への放射線被害についての助言を行ったり活動されている様子を知ってはいましたが、この記事を読んで、本棚から10年前の著書をとり出してきました。

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 記事による紹介を書き移してみます:

 安斎は1940年に東京で生まれた。「皇紀2600年、ゼロ戦が生まれた年です」と語る。終戦を挟む5年間、福島で疎開暮らしをした。福島への思い入れは深い。

 国は60年原発建設を支える高級技術者を養成するため東大に原子力工学を作った。最初の2年間は準備期間で、62年から学生の募集が始まった。安斎はその第1期生15人の一人だ。その後、医学部の放射線健康管理学教室に進む。「プロパーの本道から外れて側道に入って勉強しているうち、この国の原子力政策はこのまま突っ走ると危ないかもしれないと思い始めた」と振り返る。

 全国の原発立地店で住民に呼ばれて講演するようになり、「反国家的イデオローグ」のレッテルも貼られた。立命館大学に移る86年春まで17年間、助手生活が続いた。研究教育体制から一切外され、研究費は来ず、教育の機会も与えられない。職場は監視役がつき、講演に行けば尾行がついた

原発は国家プロジェクトで、批判的であることは反国家とみなされたのですね。学問の自由が実際には侵されていた証拠でも。朝日の記事の後半です:

 そして3・11。「米国の原子力戦略を日本政府が展開し、それを福島県民は受け入れていったもっと抵抗できたのではと忸怩たる思いがあって、それはやっぱり我々の責任だと」。 このままではいけないと毎月福島に通うようになった。原発がこうなったのも、元を正せば日本が不条理な太平洋戦争を始めて敗北し、米国の占領下に置かれて食料とエネルギーを握られたからだと考える。

 放射線防護学から平和学を究めていく安斎は、原水爆禁止世界大会ジュネーブ、モスクワなどでの様々な国際会議に参加し、原発核兵器も問うようになる。その象徴ともいえるのが、福島10年と核兵器禁止条約の発効を受けてこの春刊行した2冊の新著だ。 

その一つに「核なき時代を生きる君たちへ」(かもがわ出版)の書名をつけた。核兵器の構造から平和・軍縮運動の歴史、核金条約に至るまで、「K君」に語りかける対話形式で書いた。「小難しくならないための歯止めになりました」。私たち市民がどう行動すればいいのか。考えるきっかけにしてほしいとの思いを込めた。若い世代が本当の意味で「核なき時代を生きる」ことができるように。

編集委員・福島英樹)

◎同じく3・11で知った「物言う学者」に小出裕章氏がいます。1949年生まれですから安斎氏とは9歳違い。お誕生日前なら現在71歳かな。「shuueiのメモ」さんが記事にしておられます。

安斎氏は「悔恨」、そして小出氏は「挫折」という言葉を使っています。お二人は原子力に携わる研究者として共に政権から疎んじられたり警戒されたりという扱いを受けておられます。それでもなお訴え続けておられる今を伝える記事です。

先に、毎日新聞のウェブ版からコピー、そのあと「shuueiのメモ」さんからのコピーです:  

ストーリー:安全神話、エビデンスで斬る(その2止) 「原子力の夢」に挫折 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 安全神話エビデンスで斬る(その2止) 「原子力の夢」に挫折

 
「もやい展」で展示された作品「夜ノ森哀歌」の前に立つ小出裕章さん。桜の名所として知られる福島県富岡町夜の森を、画家・金原寿浩さんが描いた=東京都江戸川区で4月7日、沢田石洋史撮影
「もやい展」で展示された作品「夜ノ森哀歌」の前に立つ小出裕章さん。桜の名所として知られる福島県富岡町夜の森を、画家・金原寿浩さんが描いた=東京都江戸川区で4月7日、沢田石洋史撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆異端者による、1人の戦い

「差別構造」許せない

 東京電力福島第1原発事故の直後は「東日本が壊滅するのではないか」というショックが日本列島を襲った。「あの日」から10年の歳月を重ねた3月11日。元京都大原子炉実験所助教小出裕章さん(71)は東京・永田町の憲政記念館にいた。個人や団体が集結した「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」が主催したオンライン世界会議で「特別講演」を行うためだ。タイトルは「原子力マフィアの犯罪」。

 小出さんは45分間の講演の終盤、原発事故で強制避難中の人、自主的に避難している人らの間で分断があることに懸念を示した。「大切なことは被害者には多様な苦悩があることをお互いに認め合い、助け合って加害者と戦うことだと私は思います」加害者は「原子力マフィア」と定義し「国を中心とする巨大な権力組織で、民衆の力は弱い。でもこの戦いを続けなければ、次の悲劇があることを覚悟しなければいけません」と訴えた。

 

「原子力の夢」に挫折 異端者による1人の戦い - shuueiのメモ (hatenablog.com) 

原子力の夢」に挫折

異端者による1人の戦い

 

2021/5/2 毎日新聞

 

 

信州で仙人 道半ば

小出さんは2015年3月、定年退職した。「仙人になりたい」。

長野県松本市郊外に居間と寝室の2部屋しかない家を建て、妻と移り住んだ。子ども2人は独立。

住所や電話番号を誰にも知らせず、畑仕事をしながら暮らす。

「朝5時に起きてまずは畑に出ます。雑草を抜いたり、種をまいて苗を作ったり。夕方には畑に水やりをしますが、広いので小一時間はかかります」。

畑では春から秋にかけて約30種類の野菜を完全無農薬で育てる。

6年前に植えたケヤキシラカシの木が大きくなり、冬はまきストーブの燃料になる。

太陽光で発電し、クーラーはない。そもそもなぜ「仙人」に憧れるのか。

「私は人間嫌いなので人と付き合うのが面倒くさい。精神的にも肉体的にも老いてきているのを自覚しており、消えていく道をつくろうと思っています」

その一方で、原子力を研究する場に身を置いていた人間として、自分には「特別な責任がある」との考えが消えることはない。

原発事故時、4児を抱えて西日本に避難した写真家の田村玲央奈さん(47)と公演後に言葉を交わした際、こう謝罪した。「心からごめんなさい、あんなものを生み出してしまって。子どもたちに謝りたい」

自分のメッセージに応えて行動に移した一人に、女優の木内みどりさん(19年に69歳で死去)がいる。映画やテレビの出演機会が減ることを恐れずに数万人規模の脱原発集会で司会を務めたり、社会的・政治的発言を続けたりした。前掲書の「原発事故は━」にはこう記す。

〈私はラジオでも公演でも、「(原子力は安全だと)騙された側にも責任がある」言ってきましたが、その言葉を一番真摯に受け止めてくれたのは木内さんでした〉

 

何度か小出さんの講演に通った私(取材する沢田石記者)は、ある一つのことに気付いた。聴衆に共闘を呼び掛けたり、連帯を求めたりする言葉を意識的に使おうとしないのだ。そう指摘すると、こんな答えが返ってきた。

私は徹底的な個人主義なので、孤立を恐れないで生きてきました。私は人に何も求めません。人間は一人一人がかけがえのない個性を持ち、100万人いれば100万通りの生き方があります。それぞれの人が判断して、行動していけばいい」

原子力の場」の「異端者」は後悔を胸に仙人への道を歩んでいる。そして他人からは不器用に見えるかもしれないが「一人の戦い」を今も続けている

 

 学生運動が下火になった74年に大学院修士課程を修了し、京都大原子炉実験所の助手(現助教)に採用されるまで教授陣と安全論争を続けた。京都大はリベラルな学風で、採用時に身元調査などはなかったという。原子核工学科にとって厄介な存在だったに違いないが、小出さんを研究室に受け入れてくれた教授が一人いた。

選んだテーマはトリチウム。「原子力を利用する限り、トリチウムは生まれ続け、捕捉できない。長期的には最大の環境汚染源になる」と考えたからだ原子力廃絶のための研究は自ら認めている通り「異端中の異端」。出世には関心がなかった。

研究を続けたトリチウムは、福島第一原発の事故後、処理水から取り除けないことが問題になった。政府は処理水を希釈して海洋放出する方針を決めたが、地元の漁業者らの反対は根強い。

 

 

東北大の指導教授とは別に、一人の「恩師」との出会いも小出さんの人生に影響を与えた。当時、東京大原子核研究所の助教授(後に芝浦工業大教授)だった水戸巌さん。

女川原発の反対運動をしていた仲間が業務上妨害容疑で逮捕された際、小出さんは裁判で原発の危険性を証言してくれる学者を探していた。友人から紹介されたのが原子核物理学者の水戸さんだった。いち早く原発の危険性を訴え、反原発運動の黎明期を切り開いた人物として知られる。

69年に、水戸さんは人権団体「救援連絡センター」の設立に妻の喜世子さん(85)らと参画し、大学闘争で逮捕された学生らを支援してきた。小出さんから依頼を受けると手弁当で裁判の証人となり、女川原発反対集会での公演を引き受けた。

 


53歳で早世した水戸さんの「お別れ会」で小出さんはこう述べている。

「国にたてついて、たった一人でも、専門的に、また運動的に状況を切り開いていかねばならなかった水戸さんの歩んできた道は誠に険しかったと思います。しかし、水戸さんは一介の学生にすぎなかった私たちに対しても、常に丁寧で思いやりのある態度で接してくれました」

 

山好きだった水戸さんは86年末、24歳の双子の息子と冬の北アルプス剣岳を登山中に遭難。翌年、3人の遺体は谷筋で見つかった。冬山登山なのに3人の靴がテント内に残されていたことが謎として残った。厳冬下、何らかの事情で靴下のままテントを出たことになるが、その理由は分かっていない

 


小出さんは2月刊行の「原発事故は終わっていない」(毎日新聞出版にこう記す。

〈私の周辺には、事故を装い殺された疑いが拭い去れない人が5人います。また、自死を装って殺されたかもしれない人が2人います(抜粋)〉

小出さんは私にその一人一人の名前と死亡時の状況を説明した。そこに水戸さん親子も含まれていた。

 

取材 沢田石洋史(企画編集室)
1992年入社。東京・大阪社会部、東京地方部副部長、夕刊報道部副部長などを歴任。本欄で2018年に「俳優・中村敦夫 78歳の挑戦」を執筆。毎日新聞ニュースサイトに「この国に、女優・木内みどりがいた」を連載中。

 

 

( 写真は我が家の北側で咲く花たち:ツル薔薇のカクテルと黄色のユリオプシスデージーと赤いチェリーセージ