ルノワールと安藤忠雄(兵庫県立美術館のクラークコレクション展)

今日は午後から雨、それも雷雨の予報です。先ほど洗濯物を取り込んで、自転車でプールへ向かったのですが、東の空が真っ暗。4時過ぎ、水中をひと歩きして外に出ると、西の六甲辺りを残して黒い雲が迫っています。降られるのを覚悟で自転車を飛ばしました。ポツ、ポツ来ましたが、帽子を被っているので当らず、セーフ。ブログのつづきを打ち始めた頃、ザァー、ゴロゴロ雷も。恵みの雨です。さてルノワールからつづきです(13日・記)。
(←1875年・34歳の自画像/図録より)
Wikipediaルノワールについておさらい:

ピエール=オーギュスト(オギュスト)・ルノワールPierre-Auguste Renoir、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。


風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。


ルノワールは1841年2月25日、フランス中南部リモージュにて生まれる(陶磁器のリモージュ焼きで有名by蛙)。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父は仕立屋、母はお針子であった。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に住む。

1854年、13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら、後の印象派の画家たちと知り合っている。画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたというエピソードは著名である。(←1899年・58歳の自画像/図録より)

ルノワールは日本でも人気が高く、日本に居ても随分本物を見ることができます。ボストン美術館やバーンズコレクションのルノワールは私も観ています。それに、4年前の夫婦二組の旅行では、ルノワールが最晩年を過ごした南仏のカーニュのレ・コレットの丘にあるアトリエも訪ねました。ここには若き日の梅原龍三郎ルノワールを訪ねて来ていました。リュウマチを患っていたルノワール車いすを使っていたようで、アトリエの一室は生前そのままになっていて車椅子も置いてありました。(4年前の蛙ブログ「ルノワールが晩年を過ごした町を訪ねて」http://d.hatena.ne.jp/cangael/20090620/1245489208
肖像画「フルネーズ親父」は1875年、「うちわを持つ少女」(左頁)と青いリボンの少女「テレーズ・ベラール」(右頁)は1879年、「眠る少女」(左)と「劇場の桟敷席(音楽会にて)」(右)は1880年の作品です。燃えるような花弁の花の絵は「シャクヤク」(1880年頃)。そして、空と海の青が美しく輝く「ヴェネツィア、総督宮」(左)とバラ色の夕焼けの光が溶けているような「日没」(右)は1881年頃の作品です。(赤い帽子の絵は後で)
  
ポスターにも使われている「鳥と少女」には(アルジェリアの民族衣装をつけたフルーリー嬢)という副題がついています。これが1882年の作品。
どうして作品の製作年にこだわるかというと、前クラーク美術館学芸員で現サンフランシスコ美術館の学芸員でもあるジェームズ・ガンツ氏が書いた「収集家としてのスターリング・クラーク」という文章が図録に載っています。そこで面白い記述がありました。

バーンズのような収集家は、ルノワール作品をそれこそトラック1台分の単位で購入し無鉄砲なところがあったのに対して、クラークは絵を購入するとき極めて慎重であった。彼はルノワールが1870年代と80年代初期に描いた作品、とりわけ若い女性の肖像画を好んだが、静物画や風景画も収集している
当時流行していた後期作品は、彼の好みではなかった。「ソーセージのような血の色をしたルノワールの後期作品」と、あざ笑いながら言及し(1937年日記)、さらに画家晩年の人物についても「空気で膨らんだ手足」と批評している(1942年日記)。
結局、クラークは数の点でルノワール最大の収集家(バーンズは181点所有)には及ばなかったし、最重要作品(ダンカン・フィリップスは1923年『舟遊びの昼食』を購入)を所有していたわけでもないが、描法と主題に対する高度な鑑識眼、そして自分の判断に対する揺るぎなき自信によって、フランス印象派の偉大な収集家と個人となったのである。

「鳥と少女」の前の絵、一人は赤い帽子を被り、もう一人の女性と読んでいる「手紙」というタイトルの絵は1885-1890年の作品といわれている絵です。
この絵が、後期の作品群に特徴的な「ソーセージのような赤い色」で「空気で膨らんだような手足」の丸顔の女性像に変化する兆しを感じる絵、過渡期の絵で、これが段々と丸顔の丸い体の赤い女性になるのかな…と思わせる絵です。
1994年、国立西洋美術館の「バーンズコレクション展」に私は日帰りで出かけて、前年初めての海外旅行のロンドンに二人で行ったEさんと一緒に見ました。我が家のバブルの時代でした。大きなポスター2枚を大事に丸めて持ち帰り、パネルに入れて今も飾っています。その時の図録がありますので、並べてみます。

  
(↑)「バーンズコレクション展」の図録の表紙、マチスです。
ルノワール後期の典型的な女性の絵、私もとても美しいとは思えなけど・・・と前から不思議に思っていました。クラークさんの”ソーセージのような”には笑ってしまいましたが。
そして、バーンズコレクションにあったモネの「刺繍をするモネ夫人」。
次はクラークコレクションのルノワールが描いた「読書するクロード・モネ夫人」。
おまけは飾っているルノワールのポスターの一枚、珍しい少年を描いた「イポールの浜辺の少年」(1883年)
さて、いよいよ、最後の画家へ、(図録最後の写真の左)ベルト・モリゾ印象派の女性画家の描いた「ダリア」の絵とロートレックが2枚。最後はボナールでした。
ロートレックは、さすが2枚とも描かれた女性のドラマを感じさせる絵でした。
観終わって館内のレストランで待っている時見た2階です。海が見えます。
中庭のような部分、螺旋階段で1階にも行けます。一階はそのまま浜に通じていたと思います。衝立状の壁面や外壁に使われている石はどうも御影石のようです。夏の日差しに白く輝いていました。3枚目は2階コレクション展(金山平三と小磯良平の特別室)の入り口。吹き抜け部分は自然光を取り入れています。

今回、この美術館ではマリー・アントワネット展も同時開催で、チケット売り場で3種類ありますので、私たちは常設の展示とのセット券を求めました。65歳以上は半額でした。出がけに運転免許証をバッグに入れて大正解でした。
お目当ての金山平三の「大石田最上川」を見て、現代美術を走りながら見て美術館を出ようとしたら、今回は安藤忠雄コーナーがありました。そこに、「住吉の長屋」と「光の教会」の大きな写真がパネル展示してあり、模型も置いてありました。(写真は美術館HPより)
前回来た時は、トイレの場所が分らなかったり、出口が分らなかったり、無機質なグレイの美術館で不満ばかりでしたが、今回は、不便だけど絵になるな〜と写真を撮ってきました。スッキリしていて、展示物と使いこなしている人が目立つ建築かも知れません。それと今回面白いと感じたのはエレベーターを使うより階段を上り下りしてみたくなる建物だということです。実際、戻って写真を写すため、吹き抜けの反対側へ行くのに周り廊下よりも幅が広く勾配が緩めの階段の方が早くて便利でした。何処にあるかわからない狭いエレベーターより裏階段を使う方が早いと、夫も階段を使っていました。歩ける人間は階段を使えという安藤さんの仕掛けかも知れません。
そういえば、「住吉の長屋」を父の写真雑誌で初めて知った時も、窓が無く、唯一の採光部の中庭には屋根が無く、雨が降るとカサをさして部屋の移動をしなければならない、住む人に不便を強いる家だということでした。こんな家に住む人は大変だな〜と思ったものです。今もこの家に住み続けている施主さんの言葉をWikipediaで見つけました:

光庭を中心として四季の移ろいを肌で感じ、ときに恨めしく、心踊らされ、あるときは格闘を強いられ、あるいは諦めたこともある。生きることに飽きるということがなかった。剥き出しの光庭が安易な利便性を排除することで不便と引き換えに天まで届くような精神的な大黒柱をもらった。(建築35年後の2011年に)

(写真は「住吉の長屋Wikiより)