無知による被曝「行政は、学校は私たちを守らない」(いわき市から避難した女性)

◎今日は11月11日、3・11から2年8か月経ちました。毎日のようにいろんな事件や事故、災害のニュースがテレビや新聞雑誌に取り上げられ、多くの大切なことが日々忘却の彼方へと追いやられていくようです。そのようなもののなかに忘れ去られることを意図されているものがあります。それが日本における放射能の危険性です。広島・長崎の原爆被害もアメリカと日本政府によって、隠され続けてきました。今また、同じことが繰り返されています。
そのことを告発する避難者の訴えを紹介します。
その前に、3・11以前、法律では年間1ミリシーベルトまでが安全量とされていましたが、その数字について、どのような意味があるのか研究者の崎山比早子さんが述べておられます。
◎◎崎山比早子氏の9月22日の講演を「あきつ・あんてな」さんが取り上げておられますのでコチラ「根本からよくわかる放射能の危険性・・・国会事故調 崎山比早子講演会」でどうぞ:(http://d.hatena.ne.jp/amadamu/20131103/1383507029
私はまとまった時間が取れずまだ見ていませんが、代わりに、今年5月18日の『調査報告 チェルノブイリ被害の全貌』刊行記念アレクセイ・ヤブロコフ博士講演会 にて/引用元:http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-category-37.html)からです:

福島原発事故から2年が過ぎました。事故が起きた当時、毎日テレビを見て、原子炉の破壊状況を見ていた時に、2年後にこのような生活があるなどとは、その時は想像もできませんでした。事故現場で被爆をしながら懸命に働いていらっしゃる労働者のみなさんのおかげで、幸いにして私たちの今日があるのだと思います。<略>


福島事故以来、日本では低線量被ばくのリスクに関して、これまで決められていた公衆の年間被ばく限度制御1ミリシーベルトが20ミリシーベルトに見逃されてしまいました。事故があったからといって、人の放射線に対する感受性が20分の1になったわけではありません。


1ミリシーベルトという限度線量自体安全量ではありません。それは理論的にも、基礎実験でも、それから広島・長崎原爆被爆者をはじめとする疫学調査でも、放射線に安全量は無いということは明らかに証明されているからです


1ミリシーベルトと決めたのは、原発を運転し電気を売るためのコストとリスクをはかりにかけて、「これ以下に限度線量を下げるともう採算が取れなくなる」という事情からです。その事は原子力産業の影響下にあると言われているICRPの委員長であるゴンザレスさんも、昨年福島のシンポジウムでそんなふうにおっしゃっていた事です。


1ミリシーベルト自体が安全量ではなく、経済的政治的な要因で決まっているのに、日本の放射線専門家が「100ミリシーベルトまではリスクがあるという証拠は無い」といかにも科学的であるかのように主張しているのはおかしなことです。しかも見る気にさえなれば100ミリシーベルト以下でも、統計的に有意に白血病や脳腫瘍などの癌が増えるという論文はあるんです。


放射線リスクにしきい値が無いという事は、水爆の父と言われたアンドレイ・サハロフが1958年に発表した本のタイトルにすでに書いてあります。


自然放射線科学というのは、新しい事実が発見されるとその発見をベースにして前にどんどん進んで行くというのが普通の姿です。しかし放射線のリスクに関しては、いくら科学が進んでも、それが取り入れられず、分かっていることも分かっていない事にされ、何時まで経っても同じ議論を蒸し返しているという事があります。これは明らかに問題が科学からずれて、経済的政治的な領域に入っているのに、相変わらず科学であるかのような装いのもとに論争しているからだと思います。


放射線による非がん性の疾患が無い事にされ、チェルノブイリ事故による脳神経系の疾患に対しては放射線恐怖症」という診断名が発明されたのも、同じような事情によると思います。<略>


しかし病気に対して最も効果的なのは予防です。予防は被ばくをしない事です。そのために政府は住民を汚染地域から避難させる義務がありますし、これ以上汚染が広がらないように、国家的なプロジェクトとして一日も早く事故現場を安定させることが急務です。


政府をそのように動かしていくのは市民の力です。
その力のベースになるのは、科学的に正確な知識です。<略>

その上で、ご紹介したいのは北九州市に子どもを連れて避難したいわき市の女性の訴えです。昨日の「みんな楽しくHappyがいい♪」さんの記事<「行政は私たちを守らない」と主人と放射能の測定結果を見てそう感じました。(文字起こし) (11/10)>から出だしの部分をコピーします:

2013年9月 北九州市にて


3.11福島原発事故で、故郷いわき市から、昨年1月に北九州市自主避難してきました。
今日は、主に北九州市に来るまでの9ヶ月、私が見てきたこと、体験したこと、感じたこと、そして今を話します。


原発から42kmに住んでいました。
いわき市は映画フラガールの舞台で、気候は、夏は涼しく冬は暖かく、東北なのに雪が積もらないところです。
私はそこで、ピアノ教室の主宰として、夫はいわき市職員、
子供2人と生徒たちに囲まれて、毎日楽しい時間を過ごしていました。


さて、3.11後私たちの生活は一変しました。
いわき市の北の方は30km圏内だったのに、市長が「風評被害」という言葉をつくり、圏内から外しました。
事故前は1時間あたり、0.05マイクロシーベルトだった放射線量は23マイクロシーベルト、460倍に。
当時、長崎大学の山下俊一教授が「100ミリシーベルトまで安全だ」と大キャンペーンを、
テレビ、新聞、ラジオ、学校、講演会で行き渡ったころには、学校で0.5マイクロシーベルト
通常値の10倍でも、外の活動を安全だとして行いました。


100ミリシーベルトが安全ですので、当然、給食は最初地産地消ということになり
私たちは署名活動を根気よく続けて、地産池消をすぐにやめさせました
なお、教育委員会が“給食を食べない自由”を認めたのは、2学期になってからです
ですから、安全説を信じた人の子供たちは、地産地消をして給食を食べさせていました
先生や学校に言っても無駄でした。


外の放射線量は同じではありません、
10cm違っても、2.3マイクロ、5マイクロ、普段の46倍、100倍、と様々です。
私が、疑問に思ったのは、市の職員、学校の教員が子供を守らなかったことです。

つづく

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