中村哲氏の菊地寛賞受賞メッセージ

ペシャワール会の会報が届きました。
現地では、「寒さと共に川の水位が急に落ち、洪水や濁流とつい最近まで格闘していたのに、今度は渇水との戦いです」と、中村哲氏の現地報告が掲載されています。
今回は、最終頁の「事務局便り」から、菊地寛賞受賞メッセージについてです。
「事務局便り」では、「9月の福岡アジア文化賞大賞に続き、中村医師が菊地寛賞(日本文学振興会主催)を受賞することになった。文学が対象ではなく、パキスタンアフガニスタンでの事業に対する評価である」と次のような中村医師の受賞メッセージを紹介しています:

「菊地寛」の名前から連想するのが「恩讐の彼方に」です。そこに息づく日本人らしい道義や信条を「文化」と呼ぶならば、わたしたちの事業もまた、確かに「文化活動」の端くれではありましょう。実に多くの人々が損得勘定なく直接・間接に関わって、30年間、物心両面で事業を支え続けてきました。単に伝統的な水利技術だけでなく、薄れつつある日本人の良心と気力、時流に抗うドン・キホーテの気概を評価されたのであれば、本事業に関わってきたすべての協力者と共に受賞を喜び、今後の励みとしたいと思います。

◇先日、「NHKスペシャル - 従軍作家たちの戦争 -」という番組があり、私は後半あたり、「麦と兵隊」の火野葦平が取り上げられたころから見ました。文学者と戦争という内容で浅田次郎氏が話しておられ、そこに中村哲氏が甥として登場されました。
この会報では、火野葦平の次男である玉井史太郎氏が「火野葦平と中村勉さん」という記事を書いておられます。端折りながら紹介しますと:
「1930年(昭和5年)の若松市(現北九州市若松区)の市議会議員選挙でのことです。当時、洞海湾での石炭利権を巡り、民政党にあらずんば人に非ずと言われるほどの勢力があった吉田一派に対抗して、玉井金五郎を党首とする玉井組は議会内に作った「中立連盟」を強化する。1930年の改選で、金五郎は息子の玉井組若オヤジ勝則(葦平・筆者の父)に相談。被選挙権のない葦平は、当時、全協(全日本労働組合評議会)のオルグとも言われていた友人の中村勉を推薦、葦平その妹秀子など、元気のいい若者の多くが中村当選をめざし選挙戦を戦った。
 6月1日の開票結果は、30名の議席中、17名を公認した民政党が全員当選、玉井金五郎は160票で29位で辛うじて当選、中村勉は93票を得たが、落選。この選挙で、ただ一人、民政党非公認で立候補した桝添弥次郎は151票で次点落選となった。(この子息に当るのが都知事候補で名前が上がる桝添要一氏)
この選挙戦が縁となり、候補者の中村勉と、葦平妹の秀子が結婚。すぐ生まれた女の子・共子の後、中村夫妻には、なかなか子どもが出来ず、15年後に、ひょっこり生まれたのが中村哲さんなのでした。」 

NHKスペシャルの内容はコチラ:http://tvtopic.goo.ne.jp/program/info/677148/index.html
(写真は、冬の芦原池、真中は、池の水の出口の斜面、春には真っ白になる雪柳が美しく紅葉、下は、隣りの池の枯れた葦原)