アマリリスと赤毛のアンと民主主義

ジューンベリーが6月を待たないで色づいてきました。
熟れて落ちた実もあります。季節が少し駆け足です。

昨日で5日分の薬が終わったので、今朝、お医者さんへ。
マリリスを見るため回り道をしました。

寄り道して正解でした。咲いていました!!
そのまま団地の南端の水路の内周道路を芦原公園に向かって遡っていくと、先客がおられました。
アケビのツタやグミの木を教えていただきました。昼顔が咲いて、このあたりは自然そのままです。
診察を受けたら、そのうち微熱もとれるでしょう、今日はお薬なしでしばらく様子を見ましょうということに。
これで水中歩行には一度も行けなくて5月が終わりそうです。治りが超スローなのが70代?なのか・・・・

先日カナダからSさんの電話がありました。お互い、近況報告に体調報告が加わります。
あちらも、4月は寒かったのに、今は30度にもなって無茶苦茶!と悲鳴でした。気候はどこも乱調気味なんでしょうか。
そうそう、朝のNHK連続ドラマは「花子とアン」で、「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子のドラマです。そういえば、Sさんから去年だったか、その前の年だったかにカナダの記念切手をもらっていて、しばらく食器棚のガラス戸に挟んでいました。しまってあった切手を取り出して見ると「1908〜2008」と書いてあります。「赤毛のアン」出版100周年記念切手だったんですね〜。

◎昨日は北朝鮮拉致被害者や特定失踪者の再調査を約束したというニュースが。北朝鮮が3週間以内に新設するという特別調査委員会が調査を始めた時点で、制裁の一部解除、とのこと。被害者の家族の皆さんの高齢化もあって、今回こそ最後のチャンスですね。
◎そして、「維新、分党」決定。こちらは、もともと石原、橋下両氏が一緒になったことに無理があったみたいなので・・・。公明党集団的自衛権自民党と一緒にやっていけなくなったとき、助っ人に現れるのが石原さん?では、助っ人にはならないか・・・
◎日本の右傾化。世界でも心配されていますが、日本人の私たち自身が、あれよ、あれよと言う間に、世の中全体が右寄りになってしまいました。憲法に則ったリベラルな政治の実現にはかなりの努力が要りそうです。
そこで、民主主義とはで考えさせられるお話を2つのブログから:
★「生き生き箕面通信」さんの「『ありがとう』といえる民主主義――台湾の学生にできたことhttp://blog.goo.ne.jp/ikiikimt/e/d978c2f5708503067334c052bf8f4acb
朝日新聞高橋源一郎氏が書かれたコラムからですが、ここで取り上げられた台湾の学生やオンカロフィンランドには反対意見にも敬意を払うという民主主義が生きています。
◎5月26日の「東久留米日記」さんが紹介されている選挙についての対談。都知事選で2位だった宇都宮氏と「選挙」の映画監督相田氏です。小学校の同窓生が選挙に出ると言っていますので気になります。
★「デモクラシーを取り戻せ!」宇都宮けんじ×想田和弘/司会:海老原由佳(http://utsu-ken.seesaa.net/article/398005683.html
・宇都宮けんじ氏:


 1票の格差の問題、投票する価値の問題についてはいろいろと裁判が起きていて、最高裁では何倍までは「違憲状態」、何倍を超えると「違憲」、高裁レベルでは「違憲・無効」の判決が出ています。けど、被選挙権に関する訴訟はまだない憲法44条では、「財産や収入で差別をしてはならない」とうわれているから、お金のない人が供託金を積めないと立候補できないというのは憲法違反であるという訴訟は成り立ちます。

 市民運動をしていくと、どうしても制度とか法律の改正が課題となって出てくる。そこで緑の党などは政治に進出するということで一歩踏み出したのだと思いますが、そのとたんに大きな障壁として立ちはだかってくるのが供託金の問題です。しかも、供託金は没収制度があるから、緑の党の得票数では、せっかく全国の皆さんからカンパしてもらった6,000万円が没収されてしまう
 供託金は要は立候補を制限するための制度であって、諸外国ではゼロのところも出てきているにもかかわらず、日本はどんどん高くしている。政治の世界はものすごく高い参入障壁が高い

・相田和弘氏:


 もう一つ、すごく僕らが気をつけないといけないのは、デモクラシーというのは多様性を大事にするということだと思います。いろんな人がいていい、いろんな意見があるということがベーシック。それを尊重するということです。だけど、運動をするというとことは、「みんな同じに」「みなさん賛同してください」と、ある意味で対立するようなことをやろうとしている。


 そうすると、相手を変えようとか、ここはちょっとここの部分で違うから組めないとかいいだし、それでだんだんと、純粋になればなるほど、熱心になればなるほど、同じ考えの人しか仲間として認めなくなり、運動が細っていってしまうでも、それは民主的ではない。その運動体の中にもいろんな考えの人がいていいはずで、いろいろな人たちの意見が包摂されないということは、もはやそれは民主的ではないということです。だから、その運動体の中ですら、いろんな意見があるということを許容できないといけない。

 社会運動は妥協が大事、つまり不純でいい。社会運動は多数派を形成することがゴールなのだから、純化してしまっては運動体ではくなってしまいます。不純物が混じるということを許容できなくては社会運動ではないと、僕は思います