沖縄へ「首里城・守礼門をくぐって」と「琉球とナポレオンそして居酒屋」

22日(日)午前中のレンタカーでの南部めぐりの後は、息子と別れた私たち夫婦はそのまま首里城へ。
大手門にあたる守礼門(16世紀半ばの創建。沖縄戦で破壊されたが、1958年に復元)をくぐると、
日本の見慣れたお城というより、石垣と朱塗りの美しい彩りの異国的なお城の空間に入ります。
首里城公園の一般コースを歩いて回ると1時間半かかります。かなりの登坂ですので、箕面の滝の往復散歩に近い感じです。
時間もタップリかかりますが、見どころがたっぷりです。
たくさんある門にはそれぞれ名前が付いています。
それらの門をくぐるたびに開ける視界、
石垣の稜線や見上げる次の門などがとても美しい景色です。(ガイドブックやパンフレットの解説を交えて書いてみます)
まず最初は開かずの石の門。
名前の「園比屋武(そのひゃん)御嶽(うたき)石門」の「御嶽(うたき)」で、祭祀に関係するということがわかります。案内板の文字は平山郁夫画伯の筆跡です。
この門は「神社の拝殿」のようなもので、奥に広がる森には神が宿るとされ、国王が旅に出かける道中の無事を祈願した。
1519年に作られたが沖縄戦で一部破壊され、1957年に復元された世界遺産

首里城と言えばあの紅白のラインが特徴的な広場ですが、その「御庭(うなー)」を囲む建物の入り口までに、歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門という4つの門をくぐります。(4つ目の門の写真がありません)

その広福門をくぐると広場、「下之御庭」が現れて、今度は石で囲んだ御嶽(うたき)「首里森(すいむい)御嶽」があります。中にはガジュマルの木が生えています。これも礼拝所で、琉球最古の歌謡集「おもろさうし」に数多く詠まれ、神話には「神が作られた聖地」と記されている。
右の写真の左に見える赤いベンガラ色の建物が奉神門。この中が有料区域です。3つある入り口のうち、正殿の真正面に当たる中央の奉神門は、国王や身分の高い人だけが通る門、今では観光客が通ります。
奉神門をくぐると赤白ラインの「御庭(うなー)」の向こうに首里城正殿(せいでん)が見えます。
首里城は、いつ創建されたかは不明で、13世紀末から14世紀とする説が有力。1429年より450年間、琉球王の居城として使われた。沖縄戦で全焼した後、1992年に復元された現在の姿は、18世紀の城がモデルになっている沖縄最大の建物。
御庭」の敷瓦による紅白の帯は、儀式の際に諸官や装具を配置する目安になり、中央に伸びる赤い浮道(うきみち)は国王と賓客しか通れなかった。紫禁城と似ていますね。正殿そのものも折衷様式で、屋根は「唐破風妻飾り(からはふう・つまかざり)」という日本古来の建築様式。松岡正剛氏の本で知った「てりむくり」という日本独特の屋根のラインです。ところが妻飾りの火焔宝珠や両サイドの龍や瑞雲などの極彩色の飾りは琉球独特の模様。琉球独特の赤瓦を強い風から守るために白い漆喰で固めた美しい屋根に、これまた美しい龍が唐破風の屋根の中央と大屋根の両端に飾られています。
脱いだ靴をビニール袋に入れて中に入ります。進路の案内役は昔の琉球風の被り物を付けた着物姿の男性ばかりでした。正殿をバックにカメラのシャッターを押したり、正殿の中でも皆さん親切でした。
南殿・番所(ばんどころ)は王朝時代の美術工芸品が展示されていて、その奥の書院・鎖之間(さすのま)と庭園は、国王の執務室と王子の控え所ですが、中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人の接待もここで行われた。書院から見る庭園は和風の石組のある庭園で、城内唯一の本格的庭園。1946年7月23日に国の名勝に指定。
脇の建物の中の美術工芸品を見たり、和風のお庭や書院造の奥書院<御内原(おうちばら)>を見て、いよいよ正殿の中に戻ってきました。
2階の御差床(うさすか)と呼ばれる国王が政治や儀式の際に座る玉座の間。お寺の仏像を置く須弥壇によく似ています。国王の螺鈿(らでん)漆塗りの椅子は、1477〜1526年まで在位した尚真王肖像画を基に再現されたもの。
正殿の中央階段の両脇に立っていた龍を柱に見立てて彫刻する沖縄独特の大龍柱(りゅうちゅう)と同じ、金色の阿吽の龍柱が玉座の両脇に見えます。一階の漆塗りの御差床(うすさか)床の一部がガラス張りになっていて、正殿を復元する前の遺構が見学できる。この石積みが世界遺産に登録されている。
2階の窓から首里城越しの那覇の市街が見えました。
首里城は丘の上に立っています。
これもTBS去年のドラマ「生きろ」で知ったことですが、戦争中日本軍司令部がこの高台の琉球王国宮殿の地下にありました。
「第32軍司令部壕は総距離1キロ以上の地下壕。なかに1000人を超える軍人、軍関係者や学徒などがいて、劣悪な環境だったという。」
北殿は展示コーナーや売店・休憩コーナーとなっていたようですが寄らずに外へ。
下りの門は、淑順(しゅくじゅん)門、右腋(手へんの漢字・うえき)門、久慶(きゅうけい)門をくぐってお城の外へ。

首里城は14世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城。沖縄戦で消失。(沖縄返還20年の)1992年11月3日に復元された。」
琉球王国の政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城。その中国と日本の築城文化を融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的価値があるとされ、2000年12月、日本では11番目に世界文化遺産に登録されました。」

1372年・中山王察度、初めて明に使者を送る。
1429年・尚巴志(しょうはし)により琉球王国が誕生。第一尚氏王統がスタート。
  <中国との進貢貿易を中心に海洋王国として発展>
1470年・第二尚氏王統がスタート。
1477年・尚真が即位。王国の最盛期を迎える。
1609年・薩摩藩が侵攻。幕藩体制に組み込まれる。(往復1年近くかけて江戸まで)
1879年・琉球藩が廃止され、沖縄県となる。琉球王国滅亡。

(以上、首里城公園パンフレットとマップルマガジン「沖縄へでかけよう」から適当に引用しました)
** 次回で終わります


沖縄へ<6>「琉球とナポレオンそして居酒屋」


松岡正剛の千夜千冊」の1545夜で紹介された「もし、日本という国がなかったら」の著者ロジャー・パルバース氏は日本を5つの文化圏に分けて沖縄をその一つに挙げていました。今回初めて沖縄を訪れてなるほど立派な独自の文化があるということを実感しました。NHK仲間由紀恵主演のドラマ「テンペスト」を思い出したりしているうちに、琉球王国は平和国家で、ナポレオンが”この世に軍隊のない国家があるなんて!?”と驚いたというエピソードを思い出しました。思い違いかな…と自信がなくてネットで調べてみたら、本当でした。琉球を訪れた英国人が見聞したことをセントヘレナ島のナポレオンに伝えたという事です。

◇「武器を捨てた国」(http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/bukiwosutetakuni.htm
◇「ナポレオンは『琉球王国には軍隊はなかった』という使節からの 報告を受けて、そんな国が本当に存在するのかと首をひねったというのは 本当ですか。」(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483768179

そういえば、ペリーが1953年に日本に黒船でやって来た時、琉球に立ち寄って、その時の様子を絵に残しているのが展示してありました。『ペリー日本遠征記』の挿絵の石版画です。他に企画展では、首里城から那覇港までを一枚の絵図にした「首里城周辺図」(上のチラシの写真)や屏風などの展示もありました。
ペリーの黒船来航について、Wikipediaによると:

上海で(蒸気外輪フリゲート)サスケハナ(号)に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。


琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。


しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。現在でも多くの国が来客に対して使う手法である。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。

この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。

平和国家で軍隊を持たなかったことが島津の支配下に入ることになり、また明治維新後の明治政府の琉球処分となり王国滅亡となったとすると、自衛のための戦力は持っていた方が良かったのかなと思ったりします。でも薩摩藩に反撃して戦争になっていれば文化遺産も王国も存続してはいなかったでしょうから、負けるが勝ちで良かったのかも。また、ナポレオンをして「そんな国家がこの世にあるのか」とまで思わせるほどの『平和』を謳歌していた琉球。実は島津藩の厳しい支配下にあったとはいえ、それ以前の数百年の平和な歴史が人間や文化を形作っていたと思えますので、戦争に明け暮れた英国軍人さんの目には不思議だったろうと想像します。
立派な石造りの城壁の上にベンガラ色の木造の櫓のような建造物を乗っけた琉球独特の楼門をたくさん潜り抜けて那覇市おもろまちのホテルに戻りました。
今晩は息子と最後の夕食を行きつけの居酒屋でという予定です。
その前に、ホテル向いの奇妙な建物の中にあるレンタカー会社でレンタカーを返しました。奇妙なというのは、カルティエ、ブルガリディオール、ルイヴィトンなどなど名前だけは知っている高級ブランドショップが並んでいます。その丸いくり抜きのある奇妙な建物の反対側には大型の観光バスがひしめくように駐車していました。さて、シャワーを浴びて一服して、息子と待ち合わせた場所から少し歩いて、息子が同僚と一週間に一度は行くという居酒屋さんに。
若い店員さんたちが、きびきびと働いていて大きな声で元気の良い声を掛け合っています。 カウンターしか空いて無くて座ることに。
息子が「どうだった?」と聞くので、首里城が思いのほか良かったという夫の感想。私も、首里城を見て余計に前日の博物館をもう一度じっくり見たいと、これは二人ともそう思いました。お天気に恵まれてぞんぶんに行きたいところへ行けました。息子の住んでいるマンションや働いている職場のあるビル、おもろまちが副都心と呼ばれるかなり新しい街で周りに何でもある恵まれた環境にいることなど、この目で確かめることができました。息子が、体調がおかしくなったらまた沖縄に来たら…と言ってくれるので、逃げてくるね〜なんて半分冗談、半分本気の返事をしたり。新鮮な魚と豚肉、イカ墨で染めた真っ黒な焼きそばを食べて、最後に、ウエハース代わりに丸い麩の穴にアイスクリームを入れたデザートを取ってくれました。これがとても変わっていて美味しい! ウエハースより食べ応えのあるパリッとした麩が冷たいアイスクリームととてもよく合っていました。さて、息子は、また、明日から仕事の一週間が始まります。居酒屋を出たところで別れることに。

このブログを書きながらですが、義母の鰹節の思い出話のついでに、もう一つ義母が私にしみじみ言った言葉を思い出しました。
「あんたは息子が二人だから、悲しい思いをするね〜」と言ったことがありました。義母は一番上が娘(大津在住)でその下に三人息子がいました。まだ独身だった夫の兄である長男が富士山のすそ野の「原」で30歳になったかならない年齢で通り魔事件の犠牲になりました。長男を頼りにしていた夫の両親は、二人も静岡にいることないと次男のわが夫(当時沼津)を呼び戻すことに。二人目をお腹に共働きをしていた私は仕事(製材機メーカーの輸出入業務・取扱説明書の翻訳とか通信・出荷の荷造り手伝い・お茶入れ等々)を止めて夫の実家で同居することに。夫は2年後、職種を変える転職・転勤で大阪へ。家族4人は神戸に引っ越しました。「悲しい思い」の中には「親を捨てた」と思われた夫のことも入っています。
考えてみると夫は同じ目に合っています。「二人も東京にいることない」と呼び戻したつもりの次男が、今度は定年までの沖縄暮らしになるという。”老後は二人きり”が現実になりました。因果は巡るですね。義母の場合は三人目の弟夫婦が同居して最後まで一緒でしたが、明治の母親にはいったんは戻ってきて同居しながら転職・転居した夫の仕打ちは堪えたようです。というわけで、私たち夫婦は息子と会って2日間話しをして、大きな安心感や幸福感で満たされると同時に一抹の寂しさも感じる沖縄は”おもろまち”行きとなりました。(左の写真はチラシから:「爬龍船競漕及び帰唐船の図」)

◎最後に首里城の塗料と沖縄の花についてです。首里城全体が落ち着いたレンガ色をしています。ベンガラ色と書きましたが酸化鉄の色で、沖縄の瓦の色であり、シーサーの色であり、首里城の色です。首里城公園のパンフレットには、「正殿の壁等の彩色塗料には、桐油が塗られています。なお、下地の一部には漆」と書かれていましたので、塗装を調べると、「ニービ土に水と漆を混ぜて塗った上に、桐油(とうゆ)を塗る」とあります。桐油というのは、昔、番傘や油紙に塗った水捌け塗料のことです。

 沖縄の土壌は、南部に多く見られるジャーガル、島尻マージや、北部に見られる国頭マージ、その他にもクチャやニービといった土壌に分けられ、他府県の土壌と異なる様相を示します。
 内地では、植物などが堆積や火山灰が堆積してできた土壌が多く見られますが、沖縄の土壌は、大陸からの川や海流によって堆積した土壌や、太古の珊瑚でできた琉球石灰岩の風化などで出来たミネラル分たっぷりの土壌になります。そのため、沖縄の土壌は有機物が少なく、多くの圃場では、牛糞堆肥やバガス(さとうきびの絞りかす)、緑肥植物等による土づくりが行われ、植物にとって最高の土壌環境で育てられています。
 圃場用水もミネラルたっぷりの大地を流れているため、ミネラル分が多く含まれています。我々が飲んでいる水道もミネラル分が豊富で、お茶を入れると、お茶の成分とカルシウムが反応するためか、底に沈殿物が出来たりします。沖縄の人が穏やかな性格なのも、毎日、カルシウムいっぱいの水を飲んでいるからかもしれません。
 さて、実際に沖縄の土壌で育てた野菜が、内地のものよりもミネラルが多く含まれているという試験結果も出ています。九州沖縄農業研究センターの研究報告では、沖縄県の各土壌中のカルシウムや鉄分、カリといったミネラル分が豊富に含まれており、内地の土壌よりも沖縄の土壌で育てたゴーヤーの方がミネラル分が豊富という研究結果が報告されています。 このことから、沖縄の他の農産物についても、他産地のものよりもミネラル分がいっぱい含まれていると思われます。

写真は「備瀬(びせ)のフクギ並木」の写真です。
フクギに絡むように赤い花が咲いているのはハイビスカスです。
これも帰りの空港へのタクシーの運転手さんに教えてもらった話ですが、
この芙蓉の花のような大きな赤い花はハワイではハイビスカス、
日本名は芙蓉(ふよう)あるいは仏桑華(ぶっそうげ)です。
大きなのは外来種で、沖縄の原種の花は”赤花”といって、花は小さく、
道路の仕切りに低く剪定して植えてある中によく咲いていました。

沖縄の「県花は?」と聞かれて、ハイビスカスじゃないとしたら?・・・。
デイゴ(梯梧)」。
あぁ〜そうか〜!!ですが、どうも今回は見ていないようです。
花の時期にはまだ早かったのか・・・これも次回は、ぜひ見たいものです。
というわけで、見逃したものがたくさんあって、次回が楽しみな初めての沖縄旅行でした。
「◎写真の文庫本は、ピーチに乗る前に関空で買った本、「古事記」。これは大阪からの飛行機の中やホテルの部屋で寝る前に、そして23日(月)帰りの飛行機の中で読み終えることができました。挿絵入りの分かり易い表現で、聞きかじりの断片的な知識しかなかった神話の世界がとても面白く書かれていました。
夕方帰宅してすぐプレゼントを持って隣の両親へ。何かあったらと妹にも頼んで出かけました。2日目に母から「メダカの餌が猫にやられた、どうしよう?」という電話がケイタイに入りましたが、帰るまで餌がなくても大丈夫だからと。それくらいで後は何事もなく無事で楽しんで帰ってこられました。母は何かあったらかかりつけのお医者さんに来てもらうことにしたと何かの時の心配をしていたようです。箕面にいても留守をする場合もあるのでこれはこれで良かったかなと思ったり。帰ったその日、東京の息子から電話があり、用件を済ませた後、夫が「4人で沖縄で会おうと言ってたよ」と伝えると、「半年は忙しいけど年末前ならいいよ」とのこと。年内の沖縄行が実現するか…。
「沖縄へ」終わり。