辺野古埋め立てから1年と「沖縄文化の自画像『首里城』焼失は憤死?(池澤夏樹)」

◎昨日12月14日は、辺野古に土砂が投入されて1年でした。朝日新聞でも埋め立てできたのは全体の1%でしかないという記事が数日前に掲載されていました。

 ◎13日の「特別な1日」さんが取り上げられていた元山仁士郎さんの秋田魁新報の記事に対するコメントを引用です。どうして本土と沖縄では政府の対応が違うのか?沖縄県民でなくともオカシイと思います: 

元山仁士郎@「辺野古」県民投票

@Jin46o 12月11日

なんで秋田の計画は見直すのに、沖縄の計画は見直さないの?

いくつか違う要素はあるにせよ、「地元の理解を得るのが困難」という"本質"においてはどちらも変わらないのでは。

がってぃんならんやっさ…

NHK大河ドラマの「いだてん」、日曜日の今日、最終回を迎えますが、先週は米軍施政権下の沖縄でオリンピックの聖火がスタート。許されていなかった日の丸を振っての大歓迎ぶりがドラマで再現されていました。これが72年の復帰に向けて弾みになったそうです。当時20歳の私、学生でしたが、さっぱり記憶にありません。ほとんどオリンピックの放送も見ていなかったと思います。10月だから、休みではなかったし。『いだてん』で知る戦後史の一面がたくさんあって、どこまで史実でどこからフィクションなのかちょっとわかりませんが、アメリカに対する2つの姿勢のせめぎあいがあったということはわかりました。当時の様子を「公文書館」から少し引用です:1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー – 沖縄県公文書館

Ⅳ 拍手と歓声の中、日本国旗掲揚

午後1時、4万人が詰めかけていた奥武山陸上競技場に聖火ランナーが入場しました。ファンファーレの音もかき消す拍手と歓声に包まれて聖火台に火が点り、セレモニーが始まりました。
高らかに「君が代」が吹奏される中を日本国旗が掲揚されました。日本国旗掲揚は1964年の沖縄ではアメリカのきびしい制約を受けていました。米軍占領直後は日本国旗掲揚も国家斉唱も全面禁止でしたが、1952年には「個人の家屋や政治的な意味をもたない私的な会合における日本国旗の掲揚」が許され、1961年には法定の祝祭日に限ってようやく公共建物にも日本国旗掲揚を認めたところでした。

聖火リレーの日程は「法定休日」ではなく、日本国旗掲揚の許される日ではありませんでした。にもかかわらず、「聖火を日の丸で迎えよう運動」が活発になり、聖火リレーの沿道、中継地点や学校前、あらゆる建物を、日の丸で埋め尽くそうとしていました。沖縄の若者たちが着用するゼッケンに輝く五輪のロゴと日の丸に感動する人たちもいました。

 ◎手元に12月4日付の朝日新聞の切り抜きがあります。香川県ミュージアムで開催された「日本建築の自画像」と題する企画展で見たという首里城正殿の写真について池澤夏樹氏が書いています。文学者というのは、こういう感じ方をするのかと思い、捨てきれずに残していました。後半を書き移してみます:(写真は首里城見学時の半券)

沖縄文化の自画像 首里城は憤慨していたのか

                        池澤夏樹

(前略)

いくつものコーナーの一つで首里城正殿を正面から撮った写真に出会った。再建されて先日焼失したのではなく、戦前に鎌倉芳太郎が撮影したもの。この偉大な人物について初めて詳しいことを知った。

 彼は一八九八年に香川県に生まれた。大正末から昭和初期にかけて沖縄で伝統文化の調査を行い、何よりも多くの写真を撮った。まだガラス乾板の時代、大変な苦労だっただろうし、しかも後に彼はそれを戦争中の東京で空襲からも守り抜いた。これがあってはじめて平成期の首里城再建は可能になった。

 この写真を見ながら、首里城もまた琉球=沖縄文化の自画像であると考えた。城という字がついているが、軍事的な性格は薄く、実際には王宮である(沖縄語では首里城は「すいぐすく」)。小さな島国にしてはずいぶん規模が大きい。明や清を相手の朝貢貿易で大いに栄えた時期の、その栄光を体現する建物。

 しかし廃藩置県の後はまずは熊本鎮台の拠点となり、やがて放置されて荒れ始めた。一九二三年には壊して沖縄神社なるものを造るという計画が立てられた。取り壊しの数日前にそれを知って、政治力のある伊藤忠太郎を動かして中止させたのは鎌倉芳太郎だった

 この時の働きによって、また写真を残したことによって、彼は首里城を二度まで救った男と呼ばれる。

 この人物、人生の後半では沖縄の紅型の染色家になって研鑽を積み、最後には人間国宝の称号を得た。伝統文化を知った上で新しい時代にそれを繋げる。過去に戻って未来を見晴るかす大人物であった。

 

 首里城はしかし沖縄の受難を体現し続ける第二次世界大戦末期にはここに陸軍の司令部がおかれ、ゆえに米軍の訪韓射撃の標的となって周辺の地域もろとも破壊された。

  沖縄は米軍の施政下に入り、それが二十七年間に及んでようやく日本に復帰した。日本全土が経済成長を遂げる一方で、沖縄は軍政のもとに呻吟ていた。

 一九九二年に再建されたことで首里城は再び琉球=沖縄の自画像となった。かつては別の王国であったことの象徴。しかし賄ったのは日本国の予算であり、その用途は国王の居所にして儀式の場ではなく、観光。これが今の沖縄県の位置であるわけで、沖縄はここから前へ進まなければならない。 

 ナショナリズムが屈折しやすいことを沖縄はよく知っている。

 では、空襲ではなく純然たる事故による(らしい)今回の首里城焼失をどう受け止めればよいのか。そうまでして沖縄の受難を体現してくれなくてもよかったのに、と筋の通らないことを言いたくなる。辺野古をはじめ今の沖縄は東京の政府に徹底していじめられている。サディズムの対象になっているそれに憤慨して首里城は自ら焼身を遂げた、というのはもちろんぼくの妄想。

 この展覧会、ずいぶんいろいろなことを考えさせる。(12月15日まで)