ポツダム市の「ヒロシマ・ナガサキ広場」と信濃毎日社説「声出す姿に希望」

◎久しぶり、「みどりの1kWh−ドイツから風に乗って」から、「なぜ原爆は投下されたか」という記事の紹介です。

今年は敗戦から70年、水曜日のNHK歴史秘話ヒストリアでは、敗戦を受け入れた時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を取り上げて、ポツダム宣言受諾に至る御前会議での攻防を放送していました。
あの戦争を語るとき、日本は被害者意識で語るケースが多いとも言われます。橋下市長が「戦争教育が必要」と発言、戦争の悲惨な実態を教えないといけない、引き継いでいかなければならないという意味でした。物事を一面的に捉えると、そのしっぺ返しが必ずあります。過去を冷静に振り返って、マイナス面、受け入れがたい自国の失敗にも目を背けないで、どこで間違ったのか、しっかり反省する…という事を本当に私たち日本人は行って来たのか…
「被害国からいつまで言われる続けなければならない」と言う前に、日本が与えた被害の実態を本当に知っているのか……恥ずかしいですが、教えられなかったし、知ろうとしてこなかったと言わざるを得ません。戦争の終結=敗戦を受け入れることがいかに困難だったか、この期に及んでまだ闘い続けて本土決戦なんて言っている軍人をどうやって納得させたのか…も知らなければならないと思いました。
隣国のことに鈍感でいられるのは日本が幸か不幸か島国であることと関係があるかもしれません。日本列島に引きこもってしまえば見ないで済ますこともできたわけですし、沖縄のことが他人事になるのも、海のせいかもしれませんね。とにかく今年の8月はいつもに増していろんなことを考えさせられます。
さて、ドイツからの風ですが、今年、7月25日、ベルリン郊外の、あの”ポツダム宣言”のポツダム市の「ヒロシマナガサキ広場」で発した日本大使のメッセージに、なぜ原爆が投下されたかの言及がなかったという片手落ち?は、一人この大使だけの問題ではなくて…『日本人の問題』だと思いました。原爆の被害を語るときに、こんな問いかけを胸に抱いて聞いている人がいる、そのことを自覚できないと、被害の面だけを一方的に言いつのると受け取られて、肝心の伝えたいことが伝わらないという事になってしまいます。
(引用元:http://midori1kwh.de/2015/08/02/7136#more-7136

なぜ原爆は投下されたか          こちゃん / 2015年8月2日


hiroshima-nagasaki-platz
←(千羽鶴が飾られたヒロシマナガサキ広場の記念碑)




ポツダム宣言」の名前で日本でも知られるベルリン郊外のポツダム市に、広島と長崎の名前を冠した広場がある。 ポツダムは、1945年7月17日から8月2日にかけて米国、英国、ソ連3カ国の首脳が集まって、第二次世界大戦後の戦後処理を決めるための会談を行った地だが、会談に参加した米国のトルーマン大統領が日本への原爆投下命令を下した地でもある。そのことを忘れないために、原爆に反対する市民運動の働きで、この街の小さな広場が「ヒロシマナガサキ広場」と命名されている。


トルーマン大統領が原爆投下の命令を下したのは1945年7月25日だった。米国大統領、英国首相、中華民国主席の名において日本政府に対し日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明された7月26日の1日前だ。


この広場は、会談会期中にトルーマン大統領が滞在していた高級住宅街の立派な屋敷の前を走る道を挟んで向かい側に位置する。それまで名前のなかったこの小さな広場 を「ヒロシマ広場」と命名することは、広島と長崎への原爆投下で犠牲になった人々の悲惨さを回顧し、核兵器を世界から追放するよう願うベルリンやポツダムに住む市民たちの働きかけが実って、2005年にポツダム市議会により決定された2007年には「ポツダムヒロシマ広場をつくる会」が生まれ、2010年に同会の尽力で、広島と長崎から運ばれてきた被曝した石も埋め込まれた立派な記念碑が落成、除幕されている。その後、この広場の正式名は、より適切な「ヒロシマナガサキ広場」に変更された。



この広場では数年来、毎年7月25日に広島と長崎への原発投下を思い、2度と同じ過ちが繰り返されることのないよう、平和を求める式典が行われている。トルーマン大統領の原爆投下命令から70年目に当たる今年も、式典があり、ポツダムヒロシマ広場をつくる会会長の挨拶やこの広場の持つ意義についての話、在ドイツ日本国大使からの挨拶、広島市長と長崎市長からの書簡の朗読、ポツダム市代表のスピーチ、ICAN (International Campaign to Abolish Nuclear Weapons )ドイツ支部の若い代表らによる活動報告などがあった。


日本国大使は、日本が核兵器のない世界を求めていることを強調、広島と長崎市長は原爆の悲惨さを訴えて平和を求める願いを文章に綴っていた。ただ、日本からのメッセージには、「なぜ原爆が日本に投下さることになったか」という原爆投下の背景に関する発言は一切なかったそれを語ったのはポツダム市長を代理してスピーチを行ったポツダム市の副市長のマティアス・クリップ氏(緑の党)だけだった。


同氏は、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領がドイツ敗戦40周年記念の式典で行った有名な、過去を振り返ることの重大さを語った演説に触れ、ドイツが敗戦に至る前に何があったかについて話した。そして、「米国による日本への原爆投下の背景には、日本の中国侵略やパールハーバー攻撃があった」と指摘し、その場に集まっていた一同に、その事実をはっきりと思い起こさせた。

◎「かっちの言い分」(8月2日)さんが、[戦争法案は、皮肉にも政治に無関心であった若い世代に火を点けた。これが命取りになる。] というタイトルで、信濃毎日新聞の社説(8/2日曜日)を紹介しておられます。

あすへのとびら 若者と安保法制 声出す姿に希望がある


 「憲法守れ」「戦争するな」「民主主義って何だ」…。

 マイクを握った若者のリズミカルなコールに、デモの参加者が大声で応じる。まるでサッカーJリーグの応援をしているような熱気と盛り上がり方だ。

 政府が5月に安全保障関連法案を国会に提出して以降、社会の各界各層で反対運動が広がりを見せている。中でも若者が活発に動いていることが目を引く。


   <行動の原点は3・11>



 その中心的な役割を果たしているのが、首都圏の学生らでつくる「SEALDs(シールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動)」だ。毎週金曜日、国会の前で抗議行動を続けている。他の市民団体とも連携して集会を開くなど存在感が高まった。

 ネットを駆使してメッセージを発信し、仲間が増えている。関西や東北地方の学生らも同じ名前のグループを立ち上げた。

 東京の日比谷で先月下旬に開かれた市民集会。シールズのメンバーで、大学4年生の元山仁士郎さん(23)は若者を代表してステージに立ち「政治に言い続けることで変えることができる。声に出していこう」と訴えた。

 米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市で生まれ育った。米軍機の騒音は日常生活の一部で「仕方ない」と思っていたという。そんな意識を変えたのが、4年前の東日本大震災による福島第1原発の事故だった。

 住み慣れた故郷を追われ、生活基盤を失うなど、人間の尊厳が踏みにじられる実態を知った。米軍基地の過剰な負担を強いられている沖縄の現状と重なった。


(省略)


   <しっかり支えたい>

 社会のありように疑問を感じながらも、自分の将来や学業、生活のことで悩み、試行錯誤している若者は多いはすだ。シールズのような活動が一過性で終わるか、新しい形の社会・政治参加の仕方となっていくか、今はその分岐点といえるかもしれない。


 国民の声が反映されず、風通しの悪い政治状況に声を上げ始めた若者をしっかり支えていきたい。若者の声を社会が受け止めてこそ希望が見えてくる。


(◆全文はコチラで:http://31634308.at.webry.info/201508/article_2.html