オバマ大統領の謝罪抜き広島訪問「想田和弘氏の喜べない理由」と岩国海兵隊基地スピーチ

(2つ目です)

◎「マガジン9条」の想田和弘氏の「オバマ大統領の広島訪問を手放しで喜べない理由」は、長文ですが、アメリカに20数年住んでいる日本人から、日本の人々への疑問と呼びかけでもあるような内容です。
私もあの演説に感じた違和感、出だしの「死が空から降って来た」は、長いオバマ演説の基調であり、あの日の朝広島に落とされたのは米製の「原爆」だったという事実から始めない限り、どれだけ言葉を紡ごうと虚しさが漂うと思いました。
オバマさんの表情にその虚しさを感じました、と言うより、その虚しさに抗ってアメリカ大統領を演じているように見えました。準備された演説は、原爆(広島平和記念)資料館の展示品を見た後では、とても読み切ることが出来ないことをオバマさん自身が一番よく分かっていたのではないかと思います。だから、原爆資料館の滞在があの短さで、実際は何を見たのか(何を見なかったのか)は極秘にされた。それでも、原爆資料館の中に何が展示されているか日米お互いに知っているワケですから、あの後に演説を読むオバマ氏の白々しさや苦痛?を感じとった日本の私たちは、それ故に謝罪ナシを仕方がないと思ったのではないか(少なくとも私は…)と思うのです。ノーベル平和賞(「核なき世界」のアピール)はこの時のオバマ氏にとっては重荷ではなかったかと…想像しました。また、「核なき世界を」目指すオバマさん以外では実現しなかった「謝罪なき広島訪問」であったと思います。

想田氏の「謝罪なしでヒロシマへ行けるのか?」という疑問が、やはり、出だしの「死が空から降って来た」という言葉で、「オバマ大統領は米国の非に一切言及することなく広島の訪問を終え、なおかつ日本人の大半から拍手喝采を浴びるという『政治的曲芸』を成し遂げたのである」と書いています。
全文をコピーします:(引用元:http://www.magazine9.jp/article/soda/28209/
◎その前に、オバマ氏は、広島に先立って岩国海兵隊基地で演説をしていたそうです。そこには自衛隊員も同席していたとか。「☆句の無限遠点☆」さんが、アゴラの記事をブログで取り上げておられましたので、私も貼り付けておきます。(http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20160601/1464786305

もう一つ、奇妙なのは、広島に先立ち、オバマ大統領は岩国海兵隊基地の格納庫で米軍最高司令官として、「アメリカ軍将兵および日本自衛隊員に向けての演説(Remarks by President Obama to U.S. and Japanese ForcesとホワイトハウスHPにある)は、ほとんど報道されていないことだ。

とくに、自衛隊員も同席したことは非常なる意味があると思うが、生放送していたNHKの放送でも紹介しなかったのではないか?

アゴラの記事「岩国基地でのオバマ演説を報道しないマスコミの罪/2016年05月30日」全文はコチラ:http://agora-web.jp/archives/2019455.html
◎それではツィート欄でいつも引用している想田和弘氏のマガジン9に掲載された記事全文です:

  オバマ大統領の広島訪問を手放しで喜べない理由




 米国のバラク・オバマ大統領が被爆地・広島を訪問した。現職の米国大統領としては初めてである。直後に行われた日経新聞世論調査によれば、訪問を「評価する」人は92%にのぼり、「評価しない」4%を圧倒した。

 たしかに今回の訪問は歴史的な意味を持つものであり、23年前から米国で暮らす僕にとっても感慨深いものだった。「ニューヨーク・タイムズ」電子版で、被爆者の森重昭さんとオバマ氏が抱擁する写真を目にしたときには、思わず涙ぐんだことも告白せねばなるまい。


 しかし、である。

 今回のオバマ氏の訪問には、一定の意義を認めると同時に、強い違和感をも抱かざるをえなかったことを、ここに記しておきたいそしてその違和感を「なかったこと」にして、日本社会に溢れる歓迎ムードのカタルシスに溺れることは、非倫理的な気がしてならないのである。


 僕が違和感を覚え始めたのは、オバマ大統領が日本を訪問する前のことである

 周知の通り、彼は「広島には行くが、謝罪しない」ことを表明した。それはアメリカの現実からみれば、決して驚くことではない。米国では、日本への原爆投下を必要悪だったと考え支持する人が57%を占めていて(2005年の統計)、したがって「謝罪するなんてとんでもない」と考えている人も少なくないからである。


 にもかかわらず、オバマ大統領の「謝罪しない」との方針は、僕にとって衝撃的だった。そして大きな疑問を抱かせるものだった。

 「広島に行くのに、いったいどうしたら“謝罪ぬき”なんてことが可能なのだろうか? “謝罪”にまで踏み込まずとも、少なくとも、原爆を落とした行為が過ちだったということは、表明せざるをえないのではないか? 表明しないのなら、さすがに被爆者や日本国民は納得しないのではないか?」


 想像してみてほしい。

 たとえば、ドイツの首相がアウシュビッツを訪れながら、かつての過ちを認めずに済ませることができるだろうか。あるいは、安倍首相が真珠湾や南京を訪れながら、自らの祖先の行為の過ちについてお茶を濁すことが可能であろうか。あるいは、殺人の加害者が被害者の家を訪れながら、自らの行為を棚に上げたまま、仏壇に手をあわせることが許されるであろうか。



 もちろん、トルーマン大統領が広島と長崎に原爆を投下するにいたったのは、米国だけの責任とはいえない。そもそもアジアの諸国を侵略し、真珠湾を攻撃して、あの戦争を始めたのは日本である。そしていくら国土を空襲され焼け野原にされても、そしてポツダム宣言の受諾を求められても、降伏を拒んだのは当時の日本政府である。いたずらに戦争を長引かせ、トルーマン大統領に「これ以上の人的被害を避けるためにも、原爆を投下せざるをえなかった」との口実を与えたのは、ほかならぬ日本の側なのである。

 とはいえ、だからといってトルーマンが原爆を落としたことを免罪できるのかといえば、決してそうではないはずだ。米国は原爆によって、広島で14万人、長崎で7万人の人々———その多くは民間人であり、子どもも多数含まれていた———を殺し、生き残った人々にも放射能などによって重い障害を残したその許されざる行為を「仕方がなかった」「必要だった」と開き直りながら、いったいどんな顔をして被爆者に対面し、死者に花を手向けることができるというのであろうか


 考えれば考えるほど、そんなことは不可能な気がしてならなかった。むしろ可能であってはならないと思った。逆に言うと、それが絶望的なまでに不可能だと思われたからこそ、歴代のアメリカ大統領はこれまで広島や長崎を訪問することを避け続けてきたのではなかったか。

 ところが蓋を開けてみれば、それはまったく「可能」であった。驚くべきことに、オバマ大統領は米国の非に一切言及することなく広島の訪問を終え、なおかつ日本人の大半から拍手喝采を浴びるという「政治的曲芸」を成し遂げたのである


 だが、いったいどのようにして……?

 彼は広島演説を、次のような言葉で始めた。

71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光(せんこう)と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです」(朝日新聞デジタルより)

 死が空から降った……? 閃光と炎の壁が都市を破壊した……?

 演説の再録を読みながら、僕は叫ばざるをえなかった。

 「この手があったか……!」


 不可能を可能にさせたレトリックは、拍子抜けするほど単純なものであるつまり原爆投下を「トルーマン大統領の行為」ではなく「自然災害」のように扱ったのである。

 当然のことだが、広島や長崎が一瞬で破壊されたのは、「死が空から降り」てきたからではない。トルーマン大統領が原爆の投下を2度にわたって命じ、その命令を忠実に遂行した人間たちがいたからである。都市を破壊したのは、直接的には「閃光と炎の壁」かもしれないが、本質的にはトルーマン大統領と彼の指揮下にいた人間たちである。その主語を曖昧にし、あたかも自然現象が空から降ってきたかのごとく表現することは、欺瞞以外のなにものでもあるまい


 だが、悔しいことに、大多数の日本人はその欺瞞的レトリックがオバマ氏の口から発されるやいなや、喜んで抱きしめてしまった。なぜならそれは、戦後に生きる日本人が戦争に正面から向き合うことを避けるために発明し、長い時間をかけて身体化させてきた欺瞞そのものだからである


 つまり戦後の日本人は、あの戦争を「誰かが起こした行為」ではなく、「空から降りてきた自然災害」のように扱うことによって、自らの加害性を隠蔽し続けてきたのではなかったか。同時にそうすることで、昨日まで「鬼畜」であった米国を、今日から「新しいボス」として何の屈託もなく受け入れることにも、成功したのではなかったか。



 「ひどいことは起きたけど、誰が悪いわけではない。誰かの責任を追及しても、しかたがない。過去は水に流して、ガンバロウ……」


 オバマ大統領は、はたから見れば難題に見える政治的曲芸を成し遂げるにあたって、なにも新しい論理やレトリックを発明する必要はなかった。彼はおそらくは周到な社会心理学的調査と計算のもとにすでに存在する日本的欺瞞の「メロディー」を借用することを選択したその旋律はすでに日本人の体内に刻み込まれており、オバマ氏はそれを上手に奏でるだけでよかったのである。


 すでに述べたように、僕は今回の訪問を全否定するつもりはない。原爆投下をした張本人である米国の大統領が広島を訪れたことは、核軍縮にとっては「前進」のきっかけになりうるだろう。

 しかし同時にオバマ氏は、米国による原爆投下や、それに至らせた日本の行為について問う絶好の機会を失わせ、「否認」という名の重い蓋をしてしまった。そして安倍首相を筆頭に、日本人の大半もオバマ氏の共犯者となり、問題の核から目をそらして「なかったこと」にしてしまった日本人の多くは、オバマ氏が「謝罪」しなかったことで、自らの祖先の行為にも目をつむることができ、内心ホッとしてさえいるのではないだろうか。


 だが、日本や米国が犯した過ちから目を背けたままで、核の廃絶や戦争のない世界が本当に実現できると、オバマ氏は、日本の人々は、本当に考えているのだろうか。

 人間が前向きに生きていくためには、辛い過去を水に流し忘れることも必要だ。だが、本当の意味で水に流すためには、起きたことに正面から向き合い、語り合い、自他の過ちを認め合うプロセスを経ることが、どうしても必要なのではないだろうか。
 今回のオバマ大統領の訪問がそういう機会になりえなかったことは、実に残念でならない。

(写真は、原爆ドームを除いて、ハフポストのオバマ大統領広島訪問の記事からコピー)