「福島の『帰還』に思うこと」(青山晴江「市民の意見」より)


バルセロナフィギュアスケート男子、グランプリ・ファイナル。ショート・プログラムで歴代最高110.95の演技だった羽生弓弦、昨日のフリーでも自己最高の219.48点をマーク。合計330.43で、前回2週間前のNHK杯での世界最高点をあっさり更新。初の大会3連覇達成です。
2位には、合計292.95点で地元スペインのハビエル・フェルナンデス、コーチが羽生と同じブライアン・オーサーなので練習仲間ですね。そして、日本の宇野昌磨が合計276.79点で入賞。立派でした。女子は、2位が宮原知子浅田真央は6位だったとか。SPでは浅田3位、宮原4位だったので、浅田さんに何か失敗があったのかな・・・。
SPをテレビで見てたら、案内の二人がバルセロナサグラダファミリアの前で中継をやっていました。今年の6月、あそこに行って、池に映る教会を見たり、中に入って、トウモロコシのてっぺんに登ったりしたのが…夢か幻みたいです。
スペインのバルセロナのついでに、パリの街角に現れたポスターの写真を。(引用元:http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1448933599/l50

これはパリで行われた地球温暖化を話し合う国連の会議「COP21」でのこと。
同時テロ直後の事なので、集会やデモが禁止。そこである団体が行った環境保護を訴える手法がこれ。風刺をこめたポスターです。
フォルスクワーゲンには「ばれてしまい、ごめんなさい」のロゴ。
そして、原発輸出に熱心な我が日本の首相もやられています。
ただし、12月1日現在で「600枚のポスターは、すでにある広告の上に無断で貼られたため、これまでにすべて撤去されています」とのことです。
このポスター、夜もライトアップされてよく見えてたのですね。
見事な風刺の効きようです。インドで原発輸出の下地作りやったとこですもんね。
◎さて、手元にある、「市民の意見30の会・東京」が発行する「市民の意見」(No.153)に掲載された記事の中から「福島の『帰還』に思うこと」という記事を書き移してみました。デモに行けない分、新聞の意見広告に参加したり、「市民の意見」を読んでいますが、その中の一つです。青山晴江さんは、詩人だそうです。詩人の感じる福島の今です。


福島の『帰還』に思うこと
   ―大熊町田村市都路を訪ねて

                  青山 晴江



 福島について何か語ろうとすると、言葉は遠くなり、心に溢れてくるものはあるのに、言葉にならず、沈黙の呼吸をするしかないときがある。
 私は東京都葛飾区に住み続け、何度も福島に通ったけれど、帰れば住み慣れた町と家がある。ここも放射線量についていえば、安全な地とは言えないが、福島の人々の抱えているものと問題が違う。国策による原発、その事故で家に帰れないとは、どういうことか。そしてまた国策により家に戻れとはどういうことか。
 帰郷とか、帰るとは言わずに「帰還」と言う。岩波国語辞典によれば「特に、戦場から内地、基地に帰ること」、それが「帰還」である。営んでいた暮らしから無理やり引き剥がされ、先の見えない不安のなかでの迷い。そのひとりひとりの苦しみの上にまだ原子力緊急事態宣言も解除できない原発近くの地へ、東京霞ヶ関から「帰還せよ」と指令を出す。この国の血の通わぬ冷たさと寂しさが吹きすさぶそれはまた、都会で電気消費生活をしてきている自分自身につきつけられた問いでもある


原発立地・大熊町

 昨年12月、大熊町の帰還困難区域に月一度の許可時に帰宅する木幡ますみさんに同行させていただいた。草茫々の庭に鳥にも食べられない柿が冷たい雨に撃たれていた。家の中は荒れ放題。「原発はほんと、だめだよね。あっちゃいけないものだよね」。ネズミの糞の散らばる畳を見下ろして、呟くように言ったますみさんの声が今も耳元に残っている。庭先の軒下で線量は18マイクロSv/時。近くの熊町小学校では60マイクロSvあった。線量はなかなか下がらずに、除染後元の数値に戻っているところもあるそうだ。数時間滞在で、私の防護服に付けていたガラスバッジは13マイクロSvの積算だった。友人の看護師によれば、病院の放射線科なら配置交代になる数字ではないかとのことだった原発事故被害の本当のことが知らされないまま、隠蔽されて消されていくものがたくさんあるのではないか…荒れ果てた野山・家々・工場跡に立ちすくみ、そう思っていた。


 今年10月いわき市にある大熊町の仮設と復興住宅を訪問させていただいた。車中、木幡さんに大熊町の大川原にできた東電給食センターの話を聞いた。大熊町のなかではやや線量が低く避難指示解除準備区域だった場所に、原発作業員のために建てられた。計画当初、町民のための給食センターかと思った人もいたそうだ。食材は福島県産が基本。水は楢葉で土壌汚染の高い所と聞く。6月に訪れた復興大臣はカレーを食べながら「大熊町に帰れるぞということを、なんとしても示したい」と語った(大熊町広報サイトより)。 また東電広報サイトによると、給食センターに小・中学生を訪問させる計画があるようだ。「大熊町で食事を作っているという事実を見学してもらうことで風評被害の払拭につなげたい」と記している

先日、線量が低くはない、開通した国道6号線を中学生が掃除に動員されていたが、安全キャンペーンのために子どもを使う政策に胸の潰れるような思いがする
仮設の男性が話していた。「俺達の代では帰れない。子や孫でも帰れるかどうか。数日滞在とかならいいが、あそこではとても生活できない。」……その話を家に帰れる私はどう聞いたらいいのか。晩秋の雨は冷たく肩を濡らした。……その仮設に猫がいて、猫の話をしているとき男性の顔と声が和らいだ。その後、木幡さんは大熊町町議選に初めて立候補し、「効果の疑わしい除染に莫大な費用をかけゼネコンを儲けさせるよりも、私たち住民のこれからの暮らしに道を拓くためにお金を使いましょう。みんなで考えましょう」と会津・いわき他の地域にある仮設を何度も訪れ訴えてまわり、女性一人だけ、2位の当選を果たした。理不尽な国のやり方に黙ってはいられないというますみさんの情熱と、原発城下町と言われる大熊でますみさんに託した住民の意思を思う時、これもまた胸が熱くなるのだった。


避難解除の地・都路にて
 14年4月に国が出した避難指示が初めて解除された田村市都路(みやこじ)地区現在は7割の住民が戻っているそうだ。15年3月で東電からの慰謝料(1人月10万)が打ち切られ、また3月末までの早期帰還者賠償(1人90万)という帰還政策で、その頃戻った方が多いそうだ
三春町まで都路から近くに避難しているWさんが迎えに来てくれた。その三春で有機農業を続けている女性は、「ここで暮らすことを選択した人の胸にある不安、覚悟もわかって欲しい」と真剣な眼差しで話してくれた。阿武隈高地の四季の訪れのなかで、事故前は同じ方をみつめ続けていたであろう暮らしが、心ない政策で分断されていく原発より20km圏に出ている精神的慰謝料その他の支援金が、境界30km圏の地図上の線引きで、通り1本隔てた向かいの家には1円も出ない。避難区域外の自主避難者への住宅援助もあと1年あまりで切られようとしている。帰還時のみ引っ越し手当支給だそうだ。事故から5年近く、復興の掛け声で人為的に作られた賑わいから遠いところで、人の心は寂しく不安に揺れているようだった。

 Wさんが勧めてくれた車の後部座席には、暖かい和座布団が置かれていた。昼にはおにぎりと漬物を用意していてくれた。梅の作物を作っていたけれど、農作物の補償が年度ごとに複雑に難しくなり、最近は、風評被害で売れなかったという証拠の書類が出たものを補償、という話もあるようだった。
小さな孫娘の被ばくが心配で、信州や山梨、広島へも避難地を求めて探し歩いた。家族の反対で都路から少し離れたところに住むことになったが、今も広島に惹かれるという。原爆の地だから、フクシマのこと、人の心をわかってくれるのではないかとそれ程に理解は少なく、孤独は深い
避難解除に反対したのは村の説明会で彼女ひとりだけ。三春で配布されたヨウ素剤がなぜ都路ではなかったのかと、田村市市議会・東電説明会できくと、後方に座っている住民から「文句言うと金もらえなくなるから、黙ってろ」と言われたという。幼女時に戦争体験もして、国は民を助けないということを身にしみて知っているWさんは、村の身の周りで反原発放射能の話をできる人がいないと寂しそうに言われた。話せた友人たちも遠く避難した。竹炭工房を山中に開いていた人たちだ。訪ねると、炭焼きの窯や屋根が崩れ、竹林がさわさわと風に揺れていた。「村に帰宅した人々も、高齢者が多いから亡くなる人もいる。若い人の姿が無い村は静かで淋しいねえ」。
竹炭工房の向いの山々は美しい晩秋の彩りに染まっていた。その景色を黙って見つめているWさんの後ろ姿。原発の爆発と放射能の降下という恐ろしい現実と、その後の暮らしの厳しさの中で、訪れた者のために車を出し、握りめしを作り、温かな座布団を置いてくれた、そのWさんの心根に、いったい私はどう応えたら良いのか……。目頭が熱くなる。
(あおやま・はるえ/詩人・原発再稼働阻止全国ネットワーク、市民の意見30の会会員)