今年もそろそろお仕舞。例年、一年を振り返って、まとめらしきものを書いています。今年も…と思って、一年を振り返ってみると、今年は、立花隆さんの「赤い死体」と「黒い死体」が、心に残りました。広島・長崎の原爆被害である「黒い死体」は、日本が中国の人たちから皮を剥がれた加害者としての「赤い死体」とセットであること。広島・長崎の被害を世に訴えようとするなら、日本の加害責任を抜きには語ることが出来ないこと。それはまた、この国では隠されて知らされない加害の実態を知ることに繋がります。私の場合は、「重慶爆撃とは何だったのか もうひとつの日中戦争」を読むことに。
6月のスペイン旅行では、残念ながら休館日に当たり、美術館前まで出かけていながら、ピカソのゲルニカを見ることは、叶わずでしたが、このゲルニカこそ、1937年4月、ナチスドイツによる無差別爆撃を受けた町でした。翌年の日本軍による中国の重慶市爆撃は、世界最初の戦略的無差別爆撃でした。日本の行った無差別爆撃はブーメランのように日本に戻ってきました、憎しみの連鎖とともに。
◎この本で書かれている「空襲裁判の二都物語」というのは、2006年3月に提訴された「重慶大爆撃訴訟」と、07年3月提訴の「東京大空襲訴訟」のことで、どちらも対都市無差別爆撃の違法性と賠償責任を問う裁判です。日本政府は、訴えに対してその無差別性を認めていません。
「重慶爆撃の歴史的意味と今日性、そして日本の果たすべき責任の所在が述べられている」"呼びかけ文"があります。これは、今から9年前の2006年の裁判提訴にあたり結成された「重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京」が呼び掛けたものです。書き移してみます:
二一世紀に入って六年。しかし「戦争の長い二〇世紀」は、まだ終わっていません。戦争にとって、二〇世紀とは何であったのか? 空から降って来る突然の恐怖、焼夷弾で焼け死んだ都市住民の炭化した死体−−東京の、ドレスデンの、広島・長崎の無残な写真ーーに、新しい戦争が直截に映し出されています。まこと二〇世紀は「空中爆撃の世紀」でした。
どこからきたのか? 一九三七年四月のスペイン・ゲルニカにおける、そして翌年一九三八年に始まる日本航空戦力の中国抗戦首都・重慶にむけた四年間にわたる無差別爆撃の歳月……ここに、「戦争の惨禍」の新しい形が生まれました。この時、この場所から、戦争法規にも、国際人道法にも反する蛮行が開始されたのです。それがいまだに精算されていないがゆえに、同時に、朝鮮〜ベトナム〜コソボ〜をへて、現在なおイラク国民の恐怖として再現されているがゆえに、「戦争における二〇世紀」は、まだ終わらないのです。その意味でも、私たちは「空からの戦争」の第一ページに、日本が「重慶爆撃」という関与を行った事実を忘れてはならず、「被害の前にあった加害」という歴史の責めと対面しなければなりません。
■日本は「戦略爆撃」の作戦名を公式に掲げ、組織的・継続的空襲を実施した最初の国である。
■日本の六六都市がナパーム弾攻撃にさらされるより五年以上も前から、重慶市民の頭上に、二〇〇回を越す間断ない空中爆撃をおこない、二万余の死傷者を出す痛切な体験を強いた。
■その歴史責任に思いを馳せることなく、日本人は空襲被害者として、東京空襲と広島”からの道”のみを心に刻み、そこに至る”までの道”を無視して長い戦後をすごしてきた。
いま、「重慶大爆撃」の年老いた生存者が、歴史の真実と正義を求め、日本政府に対し謝罪と補償の裁きを求め立ち上がりました。
何がなされるべきか? 記憶の回復と謝罪の実行。それ以外にありません。
「ゲルニカの日」から六〇年経った一九九七年三月二七日、ドイツのヘルツォーク大統領は、ゲルニカ市と市民に対し、「この残虐な行為の犠牲者は、非情な苦痛にさらされた。私たちはドイツ空軍による爆撃とそれが招来した恐怖を決して繰り返さない。いま、両国民の間の和解と将来の平和を呼びかける」と謝罪しました。また、ドレスデンを壊滅させたイギリスは、二〇〇〇年の「空襲五五周年記念式典」にあたり、エリザベス女王の名代ケント公を派遣して、謝罪と破壊された聖母教会の再建費用負担を申し出ました。一方、日本政府は、謝罪はおろか事実の認定すらしていません。
重慶は五月、空襲の中でも最大の被害をもたらした「5・3」「5・4」の日から六七年目を迎えます。私たちも急がなければなりません。生存者に対しても、歴史に対しても。
◎この「呼びかけ文」の9年後の今、安倍政権は一段と反対の方向へ向かっています。どんなに政府が、歴史を書き変える動きを加速させようと、過去に実際起こったことを知る人たちが増えれば、歴史に反する愚かなたくらみは潰(つい)えることでしょう。重慶爆撃を知ることは、過去の日本の過ちを知るだけでなく、それを隠そうとする人たちや国の意図を暴くことにもなります。それはまた、現在行われているシリア爆撃の意味を知ることにもつながると思います。
◆最後に、この本の「おわりに」で引用されている原爆詩人・栗原貞子の「ヒロシマというとき」をここに:(1972年5月の作品で、「重慶からの声」はまだ日本に届いてはいない。)
<ヒロシマ>というとき
<ああ ヒロシマ>と
やさしくこたえてくれるだろうか
<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と
やしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない