戦争を繰り返さないために:「核禁条約 発効へ『死んだ女の子』」と「撫順の奇蹟を受け継ぐ ”人間”を取り戻した元戦犯たち(豊田直己)」

◎今日はヨーガ年内最後の日でした。来年はできるかどうか・・・で終わりましたが第3波が年末年始で収まっていればいいですが。ところで、今日は昭和天皇の87歳の誕生日ですね。今の上皇様が忘れてはならない日が4つあると言われています。1つは6月23日の沖縄慰霊の日、2つ目は8月9日の原爆の日、3つ目は8月15日の敗戦の日、そして4つ目は12月8日の開戦の日。どれも第二次世界大戦に関係のある日本人にとって大事な日です。戦争を実際に体験した人たちは年々少なくなっています。私も昭和19年生まれで戦中生まれですが物心ついたのは戦後ですので、戦後の世相は体験しているけれど戦争そのものは知らない世代です。(最初1つ目の「沖縄慰霊の日」を4月28日と間違いました。この日はサンフランシスコ講和条約が発効して沖縄が本土から切り離された沖縄の「屈辱の日」でした)

過酷な戦中を体験した人たちは黙して語らずの人が多く、日本は敵国のアメリカに単独占領されていた時期もありましたので戦争そのものを語ることが出来ない国で戦後をスタートしました。だから、自力で反省する事すらできないままで戦後の復興、アメリカお手本の経済復興が目標のような国になって、ますます戦争を語る人たちはいなくなりました。苦しかった戦争中のことは忘れていいんだという風潮に。そこで、日本人は学ぶべきことを学ばないで来たのではないかと思います。今からでも遅くないと思います。コロナ禍で今までのやり方を見直さざるを得ない状況を迎えていますのでチャンスです。そこで今日は2つの話題を。

朝日新聞12月11日の「核禁条約 発効へ 核といのちを考える」というコラムに元(はじめ)ちとせさんの写真が掲載されました。このコラムは:

史上初めて核兵器を違法とする条約が来年1月22日に発効します。しかし核保有国が背を向ける中、私たちが『核なき世界』に近づけるかどうか予断を許しません。各界で活躍する人たちに、平和への思いや被爆国日本が取るべき針路などについて聞きました。(随時掲載します)」と書かれています。

◎歌手の元ちとせさんが取り上げられているのが不思議で読んでみると、こんなことが: 

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新型コロナウィルスの感染拡大でライブができずにいます。そんな中、8月7日に長崎の伊佐山公園で開かれた無観客の音楽祭に出演しました。被爆75年の節目に地元出身で核廃絶に強い思いを持つさだまさしさんが司会を務め、テレビでも中継されました。

これは知らなかった。デビューの頃の元ちとせさんの奄美島唄に鍛えられた歌声に魅せられて注目していた歌手ですが、結婚なさってからの活動は知らなかった・・・

 平和を歌い継ぐことを音楽活動のテーマの一つにして15年になります。きっかけは被爆60年の2005年8月6日。報道番組の企画で、広島の原爆ドーム前坂本龍一さんのピアノ伴奏で反戦歌「死んだ女の子」を歌いました。《あたしは死んだの あのヒロシマで 夏の朝に あのときも七つ いまでも七つ 死んだ子はけっして大きくならないの》

 もとはトルコの詩人が広島の原爆で犠牲になった7歳の少女をテーマに書いた即興詩に、日本人の音楽かが曲を付けたものです。以来、毎年夏に歌う機会をいただき、期間限定でインターネットでも配信してきました。

これも知らなかった。「死んだ女の子」は20歳前後の頃歌っていましたが、2005年、坂本龍一氏のピアノで元ちとせさんが歌ったというのは初耳です。核禁条約について元ちとせさんがこう仰っています:

核兵器禁止条約の発効は前向きにとらえています。核兵器を持つのは「自分たちはこんな強いカードを持っているぞ」みたいな子どものケンカと同じ。決して良いものでないと分かっているのに、世の中のことを深く考えてきた人たちが「持つのは良いこと」と思うのが不思議でなりませんでした。ようやく「悪いこと」という条約が出来ました。

 核を持つ国は、すぐには言うことを聞かないでしょう。ただ、指導者ではなく国民の間では、核兵器は良くないものだと考え出す人は少しずつ増えるのではないでしょうか。価値観が変わる世の中が絶対生まれると思いまうs。そのためにも新型コロナと同じくらい、毎日、核についての報道があっていいと思います。

 この条約に日本政府が参加しないのは、アメリカとの関係性を考えると、日本らしいのかなと思います。でもその分、「核兵器はなくさなければならない」「戦争はしない」という意思を強く押し出してほしい。世界の流れが変わることを見据え、ここぞというときに存在を見せつけてほしい。(5行省略)

 私にできることは歌い続けることだけです。一人でも二人でも、「この人はどうしてこんな歌を歌っているのだろう」と思ってもらうことで、平和や核の問題を考えるきっかけを増やしていきたい。

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◎ネットで探して見るとありましたが、詩も曲も私が半世紀以上前に歌っていたのとは違うようです。死んだ女の子 - Bing video

そこで昔のままの曲と詩を探して、ここに: 

◎ 歌詞は手元にある55年以上前の「うたごえ歌集」から書き移してみます。私が19か20歳の頃に出会った歌です。歌っていると可哀そうでこみあげてきます。そして、詩の最後の『署名』という固い言葉にハッとします。嘆いても悲しんでいても死んだ女の子は戻らない。行動しなくては・・・あれから半世紀以上、来年1月いよいよ核兵器禁止条約が発効します。死んだ女の子は日本人です。日本の私たちにはまだまだ行動しなければならないことが・・・

    死んだ女の子

 

          ナジム・ヒクメット 詩

          木下航二      曲 

          飯塚 広      訳

 

一、 とびらをたたくのは あたし

   あなたのむねにひびくでしょう

   小さな声がきこえるでしょう

   あたしの姿はみえないの

 

二、 十年前の夏の朝

   あたしはヒロシマで死んだ

   そのまま六つの女の子

   いつまでたっても六つなの

 

三、 あたしの髪に火がついて

   目と手がやけてしまったの

   あたしは冷たい灰になり

   風でとおくへとびちった

 

四、 あたしは何にもいらないの

   誰にもだいてもらえないの

   紙切れのようにもえた子は

   おいしいお菓子も食べられない

 

五、 とびらをたたくのはあたし

   みんなが笑って暮らせるよう

   おいしいお菓子を食べられるよう

   署名をどうぞして下さい

 

 ◎12月10日のブログでshuueiさんが取り上げておられた記事が不戦を訴えています。

撫順の奇蹟を受け継ぐ “人間”を取り戻した元戦犯たち フォトジャーナリスト 豊田直巳 - shuueiのメモ (hatenablog.com)

 引用元は「全日本民医連」のサイトの12月1日付の記事です。素晴らしい内容なので私もそっくりコピーさせていただきます。やられたらやり返すではなくて、やられてもやり返さないことが生む奇蹟のお話しです:

撫順の奇蹟を受け継ぐ “人間”を取り戻した元戦犯たち フォトジャーナリスト 豊田直巳

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自分の加害と侵略戦争を反省し、1988年に戦犯管理所の敷地内に中帰連が建てた「謝罪碑」の前で、黙祷する高橋さん(手前)と坂倉さん

 「当時私たちは、上は将軍、高級官僚から、下は下級兵士に至るまで、全ての者が、日本の天皇中 心主義の軍国主義に骨の髄まで侵されており、中国を侵略して、取り返しのつかない被害を中国人民にあたえたという自覚を微塵も持っていませんでした。その ため、ごう慢無礼な要求を出したりして、反抗心をむき出しにしておりました」
 静まり返った中庭に、マイクを通して中国語が響きます。その通訳の間、照り付ける直射日光の下、微動だにせず立ち尽くす高橋哲郎さん。ふと、用意したあ いさつ原稿から目を離し、遠く過ぎた日を思い出すかのように正面に目をやると、そこには六〇年前、自らが戦犯としてシベリアから移送されてきたときのまま の姿で、撫順戦犯管理所が建っています。
 「計り知れない被害を受け、恨みと憎しみに満ちている中国人民は、このような私たちの態度に対して、管理所の全職員を通じて、実に辛抱強く、誠心誠意を 持って人道的に処遇してくれました。(日本兵に対する)個人的な恨み、憎しみを乗り越えて、私たちの真人間への転変に惜しみなく力を尽くしていただきまし た。
 そのような環境の中で、私たちは一歩一歩、自己の過去を厳しく反省することができるようになり、中国人民に与えた被害の深刻さにがく然とし、心から自らの罪業を率直に認めることができました
 “かくしゃくとした”との表現は、この人のためにあるかと思わせます。直立した八九歳の高橋さん。しかし、その瞳はうっすらと涙に覆われているように見えます。

敵・味方が肩を並べた記念式典

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千葉県匝瑳市(そうさし)のお寺に、中国帰還者連絡会中帰連)千葉支部が建てた「謝罪碑」の前の元731部隊少年兵だった篠塚良雄さん(左)、坂倉さん

 今年六月、中国東北部遼寧省の撫順市にある撫順戦犯管理所で、開設六〇周年を祝う記念式典がお こなわれました。ここは映画『ラストエンペラー』でも知られる旧満州国皇帝・溥儀を収容していたことで有名ですが、同時期に約一〇〇〇人の元日本兵も収容 していました。一九五〇年、ソ連による抑留の地から移送されてきた戦犯たちです。彼らは戦犯を裁く五六年の瀋陽軍事法廷で大半が起訴免除、即日釈放とな り、その年に日本に帰国しました。有期刑判決を受けた四五人も、刑期満了を待たずに釈放され、六〇年代前半には日本人戦犯全員が帰国しました。
 ですから管理所といっても、現在は「撫順戦犯管理所旧址」と名づけられた記念博物館として保存されています。今回の式典は、その博物館の改修工事の完了 と展示のリニューアルオープンを兼ねたものでした。しかも稀有なことに、式典に戦犯管理所時代の元職員や元看護師が招待されただけでなく、中国共産党と戦 火を交えた元国民党軍司令官や日本軍の元兵士など、元戦犯やその家族までも招待されたのです。敵・味方であったはずの元職員と元戦犯が肩を並べて管理所の 開設を祝うなど、世界史上、他に類を見ない記念式典です。

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60周年記念と、博物館になっている管理所の展示館のリニューアルオープンを祝って鳩が飛ばされた

 日本からは高橋さんとともに、今年九〇歳になる坂倉清さんも参加しました。坂倉さんは数年前に、日本軍による大虐殺で知られる南京を訪れ、中国の大学生たちの前でこう証言、謝罪しました。
 「一九四一年六月のある日、私の所属する部隊は一五、六人の中国人を発見し、八路軍と見なしました。そして、私も距離三〇〇メートルから銃を撃ち、一人 に命中させました。そして私は、ただちに武器を取り上げようと、その人に近づきました。しかし、それは武器も持たない若い母親だったのです。傍らには一歳 に満たない嬰児が、死んで横たわる母親の乳首を求めていたのです」

 認罪、そして人間回復の地

再会に涙する元戦犯と元職員

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元職員の英順さん(帽子)や前所長と再会を喜び合って握手する高橋さん

 このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。
 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわら ず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱い だった」と坂倉さんは振り返ります。それは「罪を憎んで人を憎まず」「兵士も軍国主義の犠牲者」との人道主義政策の実践でした。
 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。
 元戦犯を代表した高橋さんは、あいさつをこう結びました。「二〇世紀の半ばに、この撫順の地において、平和を熱愛する中国人民の手によって『鬼が人間 に』転変するという『奇蹟』を実現したこの管理所が、名実ともに大改修され、平和学習の殿堂として、世界の若い人びとに強い影響をあたえ続けることを心よ り祈念致します」

“奇蹟”引き継ぐ青年

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「ひとりの死者も出さない」との厳命のもと、戦犯を治療した医務室が当時のまま残されている

 式典には、元戦犯の二人に同行した人たちがいました。元戦犯たちが帰国後に、日中不再戦を誓っ て結成し、日中友好を進めてきた中帰連中国帰還者連絡会を、高齢から解散せざるを得なくなったことを知って、二〇〇二年に「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」 を立ち上げた人たちです。中帰連につどった元戦犯たちが、人前で自分の加害行為を繰り返し証言する姿に感激し、また、罪を罪として認めることができるまで に人間性を回復させた中国の人道主義政策に感動してのことでした。
 今回、同行した「受け継ぐ会」会員のなかには、元戦犯の孫の世代にあたる若者もいました。
 「中帰連会員がここで体験した“転変”は、それに関係した人間を強く結びつける力があります。今回の訪中でも、その団結や友情、信頼を実感しました。 これこそが『撫順の奇蹟』なんだろうなあ」と話す伊藤仁さん(32)。「歴史的な光明の一端にふれることができ、平和への決意を新たにしました」と宣言し ます。
 荒川美智代さん(36)も、感激も覚めやらない様子でこう話します。
 「家族が殺されたら、私は日本軍を絶対に許せないと思います。仕返しを考えるほど。ところが管理所の職員たちは、その辛さを乗り越えて日本兵の世話をし ました。正直、今でも信じられません。ですから、私にとって管理所で起きたことのすべてが奇蹟です。その管理所で、こうして九〇歳にもなる元戦犯と元職員 の方々が交流する。その場にいっしょにいられたこと、それは私にとって奇蹟の体験です」

いつでも元気 2010.12 No.230