NHKスペシャル「本土空襲 全記録」とB29

◎先週の土曜日のNHKスペシャル「本土空襲 全記録」はB29の本土爆撃を取り上げていました。動くものが標的だったと証言している元兵士。戦争の残酷さが表れていました。殺し合いです。敵も味方もなくどちらももう人間性を無くした鬼畜同士の殺し合いです。日本には民間人はいないというアメリカの言い分にも納得? 竹やりで敵の藁人形を殺す訓練をさせているんですから、そう受け取られても仕方がありません。だから、戦争はダメです。日本は鉄砲の球がなくなったら人間を代わりに鉄砲玉にしてしまうような国ですから、相手にする方も発狂しそうになるでしょう。自国民の大切な命を平気でそんなにも粗末に扱う国は恐ろしいと思うでしょう。だからと言って、焦土作戦が許せるとか、原爆投下が許せる、という話ではありません。戦争そのものが狂気を生み、エスカレートしていくからです。冷静なうちに戦争にならないようにしなければ.とつくづく思います。安倍政権、大丈夫でしょうか?
☆番組内容をNHKのサイトから:http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170812

本土空襲 全記録
2017年8月12日(土)
午後9時00分〜9時49分


逃げ惑う人。低空から容赦なく機銃が連射される・・・。戦闘機に装備され、機銃を撃つと自動的に作動する「ガンカメラ」の映像がいま相次いで発掘されている。また米国立公文書館で、B29が名古屋・大阪を焼き尽くした際の空襲映像も新たに見つかった。
太平洋戦争で行われた日本本土への空襲。その規模の甚大さゆえに捉えきれてこなかった本土空襲の“全貌”が、ようやく見えてきた。これらを分析することによって、「いつ・どこで・何を標的に」攻撃を加えていたのかが明らかになる。
膨大な発掘映像の分析に加え、米軍の作戦報告書、戦略爆撃に関する新資料、埋もれていた日本側の作戦、被害記録や証言を照合・データ化して地図上に落とし込むことにより、「日本本土空襲」の知られざる全体像に迫る。
空襲の恐るべきスケールを可視化していくと、史上初めて「軍用機の戦争」と化した太平洋戦争が、なぜ無際限にエスカレートし、多くの無辜の命を奪う道をたどったのかが浮かび上がる。


◎昨日は、14日の月曜日、今頃はお孫さんを迎えて賑やかなご家庭が多いでしょう、Sさんはどうしてるかな、声をかけてみようかと思っていたら、電話がかかってきました。「どうしてる? ブログでご主人のイタリア行き読んだけど〜」と。「そうなのよ〜あのまま行ったわよ〜。それより、今日はお休み?」と私。彼女は月曜日はボランティアで手芸の先生をしています。お盆休みかな、と思ったら、さすが、今日はお休みとのこと。ハルメクの8月号も届けたいしということで午後から我が家にお迎えすることに。
11時には、父の訪問医の先生が看護師さんを伴って往診に来られました。父の足もやっと腫れが引いてきました。「よかったですね、治りますね」と父に言って、今度は母の肩に手をかけて「よく頑張りました」と。母も、父が足とひざに力が入るようになって楽に立ち上がれるようになったと喜んでいました。これでまた乗り越えられたようです。帰り際、看護師さんが「毎年夏になると大変ですね。去年も誕生日前後でしたね」と言われたので、「そうなんです」と私も。先生は「長生きしてね」と。

この言葉が、いつもの軽い響きではなくて、昨日はしみじみと重く響きました。
前日、母と朝のコーヒーを飲みながらおしゃべりをしているとき、母は、B29の話をしました。「ブルンブルンと嫌な音がするのよね〜。今は忘れたけれど、ピアノで和音を鳴らして、子供たちに聞かせて、この音が聞こえたら逃げるのよと代用教員をしていた時に生徒たちに教えていた。あれは、福井で爆弾を落としたB29が通り過ぎる時のこと、大聖寺の(父の)実家の二階で私を抱きかかえて身体を固くしていた。怖かった」とも。
福井の大空襲をネットで調べると、1945年(昭和20年)の7月19日の深夜だったことがわかりました。私は、44年4月生まれですので1歳3か月、母はまだ23歳ぐらいです。この時、父は静岡県の熱海の国立療養所にいました。半年ほど前に幹部候補生になるための身体検査を受け、レントゲン検査で肋膜に影が見つかりました。そのころの仲間の方たちは南方へ行き、戻ってくることはなかったそうです。この福井の大空襲のあと、8月になって、広島・長崎に原爆が落とされ、15日に玉音放送です。敗戦後、父は本籍地の近くの療養所に送られました。
母は父の実家と自分の実家を私を抱えて行ったり来たり。母の実家は田圃を小作に出して米を作ってもらっていた農家でしたので、妹がお嫁に行った先や、あちこちへ着物を売ったりしながら肩身の狭い居候暮らしだったそうです。ある時、私を連れて父の見舞いに行ったら、「子どもを連れて来る所じゃない」とひどく叱れたそうです。

この療養所生活で母は命拾いしたと言います。もしそのまま大阪で3人で暮らしていたら父は栄養失調でダメだったし、乳飲み子を抱えて暮らしていけたかわからなかったと。生き残った者も紙一重で命をつないでいたのかもしれません。
長男と同じ大阪万博生まれの先生から「長生きしてね」と言われたのを聞いたとき、いつもと違って、しみじみと重い言葉に感じました。
そうよ、101歳のお父さん、生きたくても生きられなかった人たちの分も長生きして。あの時生き残った者と、死んだ者、あの時生まれることのなかった者と幸いにも生まれることのできた者の、なんという大きな違い!! 生きていること、生まれたことは、当たり前のことではなかったと、つくづく思ったことでした。
母が、昨日の朝のコーヒータイムで、「あれは何でやったの? なんでアメリカなんかと戦争したの? 誰が一体戦争を始めたの?」と言い出し始めました。「軍人が政治をしてた。北朝鮮と一緒やね。戦争に反対したら殺されて、牢屋に入れられて。本当は負けていたのに提灯行列して勝った勝ったと。敵だったアメリカと、今は、何なの? トランプさんもおかしなことを言ってるし、北朝鮮のあの若いのと変わらない。戦争だけは、戦争だけはダメよ」と、座っていた椅子をゆっくりとテーブルの下に収めながら隣へ引き上げていきました。
午後、お迎えしたSさんのご主人は私と同い年、戦死された父親の顔は知らないままだそうです。(↑B29の写真はネットでお借りしました)

PS:8月2日、メープルホールで3回上映された「この世界の片隅で」を見たSさんからお話を聞きました。前の席にずらりと帽子をかぶった保育園児たちがいたそうです。3,4人を挟んで先生が何人か座って、お行儀よく、かつ真剣に映画を鑑賞。すずさんが手をつないだ小さい女の子の手が吹っ飛ぶシーンでは驚きの声も上がったとか。映画を見せようと思った先生方に感心したとのこと。70年も経ってやっと戦争のことを話す人たちも出てきて、戦争の傷跡は何年たっても生々しい、NHKのドキュメンタリーやドラマも、よく頑張ってる!と二人で。