「最近ゾッとしていること」(立花隆)と「最期の言葉」(井上ひさし&後藤田正晴)

◎一昨日、又、母が今月号の「文藝春秋」を買ってきたから、と言って、先月号の文春誌を持ってきてくれました。面白い記事がありましたので、メモ代わりに:

◆巻頭言の位置にある立花隆氏の「安倍一強時代の陥弄」の後半部分から。年齢が近い?からなのでしょうか、最近の日本について感じていることが重なります:


 この手の政治とカネの疑惑問題を多年にわたって追求してきた経験者として一言しておけば、この手の政治腐敗事件は、大衆的に極めて分かりやすい事件だから、権力者と言えども政治悪に属するものを下手に擁護しようとすると、自ら傷を負うことになる。だから安倍首相はいずれどこかで身をひるがえして甘利氏を突き放すべきだった。情に流されてそれが出来なかった安倍首相にとって、甘利氏が自ら辞めたことは極めて好都合だった。これによって安倍総理はオトモダチ内閣の主宰者からグローバルレベルのポリティシャンに変身できたのだ。


 最近日本という国は、妙に一般道徳水準が弛緩して、かつてなら起り得なかったようなことが、平気の平左で起こるような国になってしまった。最近の例でいえば、教科書検定に係る先生方数千人に対して買収同然のことが行われたとか、マンションの基礎杭が地盤の支持層に達していないのに、達していたかのようにデータを偽装したとか、ろくに大型バスの運転経験がない運転手にツアーバスを運転させ大事故を起こさせてしまうとか、廃棄処分することになっていた食品をスーパーにならべてしまうとか、いくらなんでもそれはヤバいんじゃないかというようなことが、人目を盗んで平気で行われている。それが、日本自慢の安全安心の根幹にかかわる部分で、平然と行われているそれは甘利大臣のオフィスが、平気で法律破りの口利きあっせん行為を、事務所ぐるみで行っていたのと、本質的に似たような行為といえまいか。


 私は実は、今回の国会での、安倍首相の美辞麗句をならべたてた施政方針演説も似たようなものだと思っている。一億層活躍社会だの、アベノミクスの三本の矢だの、みんなもっともらしくは聞こえるけど、実は怪しい運転技能しか持たない運転手が日本国民みんなを乗せたツアーバスを猛スピードで運転しているのと等しいのではないかと思ってゾッとしている。(「文藝春秋三月特別号)

◎「イスラム国」に拘束され、2015年1月、非業の最期を遂げた後藤健二さんに始まる88人の「最期の言葉」。白洲次郎さんの「葬式無用 戒名不用」の短い言葉から、手紙のような長いものまで。その中から、井上ひさしさんと後藤田正晴さんの言葉を。

井上ひさし(作家)  過去は泣きつづけている

 肺がん公表後、小誌の依頼に応えて書かれた「絶筆ノート」(2010年7月号掲載)には、上演を控えた「東京裁判三部作」のチラシ用のコピー案が幾つも書かれていた。また、「(中略)」後は、ユリ夫人が綴った二人の印象的な会話である。10年4月9日没。享年75。


 

過去は泣きつづけているーーーー
たいていの日本人がきちんと振り返ってくれないので。


過去ときちんと向き合うと、未来にかかる夢が見えてくる。
いつまでも過去を軽んじていると、
やがて未来から軽んじられる。


過去は訴えつづけている


東京裁判は、不都合なものは全て被告人に押し付けて、お上と国民が一緒になって無罪地帯へ逃走するための儀式だった。


先行きがわからないときは過去をうんと勉強すれば未来は見えてくる


瑕こそ多いが、血と涙で生まれた歴史の宝石

(中略)


 入院中に、ひさしさんと交わした会話をふと思い出します。いろいろな人の闘病について話していた時、「病気の進み方も痛み方もみんなそれぞれ違うのだから、比べようもないし……」と言う私に、ひさしさんはこう答えたのです。
 「戦争や災害だと、たくさんの人が同じ死に方をしなきゃならないんだ。ひとりひとり違う死に方ができるというのは幸せなんだよ

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後藤田正晴(政治家)  職業を間違えた

 警察庁長官官房長官などを歴任し、「カミソリ後藤田」と呼ばれた。『見事な死』で長男の尚吾氏は、父の語り遺したかったことをこう綴っている。2005年9月19日、肺炎で逝去。享年91。

 亡くなる半年ほど前に、父は雑誌でこんなことを言っています。<90年生きてきて、僕は何をしてきたんだろうという反省が、僕の中にあるんだね。職業を間違えたんじゃないか、とも思うようになった。僕は古い絵が好きでね、職業としてうらやましいと思うのは絵描きさん。優れた作品は数十年、数百年と残っていくものね。こういうのが、人間の生き方なんじゃないかなあと思う。その点、僕のしてきたことなんて、何だったんだろうと時々思う。残るものがない。>(「週刊 四国八十八か所遍路の旅」9)

 
 普段から、「人間は死んだら無」と言っていた父でしたが、政治家として後世に何かを遺したいという気持ちも強く、もし遺せるとするなら、それは日本の平和や憲法のあり方について発言を続け、その思いを伝えることだと考えていました。
(中略)
 父が最期まで語り遺したかった考えは、
戦後の平和な日本を形作った憲法を改正するなら、先の戦争に至った要因や敗戦で得た教訓を忘れず、人や時代が変わっても、政府の勝手な解釈や独走が出来ないよう歯止めを掛けられる姿にしてほしい。このことが二十一世紀の国家像を世界に発信し、国際的にも近隣諸国にも日本をより一層、理解してもらう原動力に繋がる</span>」
 というものだと思っております。

(写真は、オオイヌノフグリの花を求めて坊島(ボウノシマ)の田畑に入る入口、受水場裏から東を見て)