◎10月21日金曜日の官邸前再稼働反対抗議デモの様子をいつものように「特別な1日」さんのルポで。今回のタイトルは「『沖縄への差別』と読書『ちゃぶ台返しのススメ』、それに『1021再稼働反対!首相官邸前抗議』」です。
今回も盛りだくさんの内容。どれも読みごたえがありますので、ぜひ、ブログをお訪ねください。
『沖縄への差別』でとりあげられている「人類館事件」は、昨日のブログで取り上げた琉球新報の記事にも出ていますので、あとでまとめて触れたいと思います。
ジャック・アタリ氏の『ちゃぶ台返しのススメ』、今年の本なんですね。ブログを始めたのがアタリ氏の「21世紀の歴史」を読んででしたが、この内容の続き?なんでしょうか。超帝国、超紛争、超民主主義のあとの新しい言葉が使われています:
技術進歩は利便性をもたらす半面、富の格差や失業も拡大させる。新興国では人口問題や貧困の問題でテロや過激思想の温床が広がっている。それに対して国連その他の国際機関も有効な調整機能を果たしえない。当面は『国家のソマリア化(無政府状態)』が進んでいくだろう。
一方 それに対して市民の側には『甘受者』が増えている。彼らは危機から眼をそむけ、政治家や企業に要求だけをする人々である。政治家はそれを自分の勢力拡大の為に利用し、危機はより深まっていくだろう。
「と、いうことで、今週も官邸前抗議へ」のデモの様子を引用してみます:
午後6時の天気は19度。スーツを着て丁度いい気候です。一昔前まで『デモには逃げやすい恰好で行け』と言われていました。訳もなく警官が襲ってくることがあったからです。反原発デモでも初期のころはそう言うことがありました。ボクの眼の前でも、警官がデモの隊列を取り囲んで周りから見えにくくしたかと思うと、ただ歩いていただけの外国人のおじいさんを捕まえて道路に押さえつけ、額から血を流したおじいさんがしょっ引いていかれたのを見たことがありますまた、夏が終わる:9.11新宿・原発やめろデモ - 特別な1日(Una Giornata Particolare)。
ところが今は違う。お年寄りも子供連れのお母さんもサラリーマンも、普通の人が平和的に参加するデモの形態が出来ている。これも官邸前抗議の功績です。ボクもデモの時はある程度はみっともなくない、小奇麗な恰好?をしていくようになりました。やっぱり、そのほうが気分はアガるじゃないですか(笑)。今日の参加者は主催者発表で800人。いつもより人の集まりが早かったせいか、それより多い感じがしました。
◎そして見逃せない事態について:
今週19日 『9/28、再稼働申請中の志賀原発2号機に6.6トンもの雨水が流入して電源停止に追い込まれる可能性があった』ということが報じられました。もし再稼働していたら原子炉の冷却もストップ、福島の二の舞になる可能性があったわけです。
どれだけ雨が降ったか知りませんが、あばら家じゃあるまいし原発に雨水が流入するというのも信じられません。でも、もっと酷いことがあります。
9月28日に流入事故が起きたにもかかわらず、北陸電力は9月30日に志賀原発の安全対策について記者会見をしているんです。曰く『西野彰純副社長は「安全性向上により積極的に取り組むとともに、早期の再稼働を目指していく」などと語った』
★志賀原発雨水流入の記事を含めて、ぜひブログを訪ねて全文を:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20161021/1477056606
(二枚のプラカードの写真をお借りしました。トップのは笑えますね!)
◎後回しにした『沖縄への差別』についてもぜひ、ブログを訪ねて、SPYBOYさんの書いておられる、日本の歴史の中での根深い沖縄差別について読んでみてください。一方で、私は、ついこの間まであった沖縄ブームを思い出します。NHKの朝ドラの「ちゅらさん」(2001年)の頃ですね。沖縄サミットが前年の2000年です。当時は沖縄の音楽も流行っていましたし、沖縄出身の歌謡界のスターもいました(安室奈美恵さんのアムラーや「涙そうそう」も)。もっと遡って沖縄が返還される前、高校野球の節目の年に沖縄の首里高校チームが特別参加した年、沖縄チームの選手が甲子園を去る時、記念に土を袋に入れて持ち帰る姿や、砂は国外持ち出し禁止の対象だというので、持ち帰り叶わず海に捨てさせられたことが話題になりました。このニュースにはみんな胸を痛めたものです。記憶が砂の時と一緒になってしまっていましたが、私が妹と一緒に阪急西宮球場で沖縄の高校チームを応援に行ったのは、この5年後の1963年の第45回記念大会でした。60年代当時は沖縄の本土復帰は国民の悲願となっていました。政治が沖縄を受け入れる方向で進んでいるときは、世間でも蔑視の方向には動かないし、マスコミも同調します。
◎「土人」「シナ人」発言は、あの「丸山真男の『抑圧の移譲』」ではないかと思います。「抑圧の移譲」とは「上からの抑圧を、下のものを抑圧することで順次移譲し、組織全体の(あるいは個人の心理的な)バランスを維持していくこと」です。(引用元:「丸山真男の「民主主義を求めて」(2)『抑圧の移譲」と「無責任の体系」と「明治の精神」:http://d.hatena.ne.jp/cangael/20140805/1407191322)
丸山真男の番組では、軍隊内での初年兵いじめが挙げられていましたが、江戸時代の士農工商の下にもう一つ下の身分を作ったともいわれる社会の仕組みもこれにあたると思います。政治は「抑圧の移譲」を利用します。沖縄差別が本土の若い人たちから平然と無表情に口にされるのは、まさに今の政治状況が抑圧的であることの反映であると思います。
◎SPYBOYさんが沖縄の歴史を書いて「1903年、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場で「7種の土人」として、朝鮮人や台湾先住民、沖縄県民らが見せ物として「展示」される「人類館事件」が起きた」ことに触れておられます。
▼人類館事件とは? Wikipediaによりますと:
人類館事件(「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。
▼沖縄の抗議は、日本人と同等扱いされずアイヌや台湾と一緒にされたことに対する反発でした:
「沖縄県からつれてきた遊女を「琉球婦人」として展示されていることに対し、地元では抗議の声があがった。たとえば当時の『琉球新報』(明治36年4月11日)では「我を生蕃アイヌ視したるものなり(私たちをアイヌなんかと一緒にするな)」という理由から、激しい抗議キャンペーンが展開された。」
「特に、沖縄県出身の言論人太田朝敷が、『(前略)彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」と抗議し、沖縄県全体に非難の声が広がり、県出身者の展覧を止めさせた。
当時の世情として太田朝敷や沖縄県民は、大日本帝国の一員であり本土出身者と同じ日本民族だとの意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱うことへの抗議であった。
「しかし沖縄や清国といった抗議する側が反差別主義的であったかというと、実はそうではない。たとえばこの事件に関して、金城馨は、沖縄県の人々の抗議により、沖縄県民の展覧中止が実現したものの、他の民族の展覧が最後まで続いた点に注目し、「沖縄人の中にも、沖縄人と他の民族を同列に展示するのは屈辱的だ、という意識があり、沖縄人も差別する側に立っていた」と主張している。」
◎先日、ブログに張り付けた琉球新報の記事で、親川志奈子さんという方が「土人」発言に、「『土人じゃない、同じ日本人だ』と反応してはならない」と書いておられるのは、このときのことを言っておられます。抑圧を「土人」に移譲してはならない。大阪の機動隊員が沖縄を差別することが悪いのであって、「土人」が悪いのではない。「土人、シナ人」ではないと言えば、考え方はヘイトスピーチと同じ。機動隊員と同じ思想で、沖縄の下に「土人・シナ人」を作る抑圧の移譲です。
■ここでもう一度:
[機動隊 差別発言を問う]沖縄へのまなざし露呈 親川志奈子さん
2016年10月21日 琉球新報
日本人が沖縄を見る時の差別のまなざしがはっきり表れた表現だった。これは言った者と言われた者の個人的な体験ではなく、日本人と琉球人の間で起こった公的な事件だ。発言者が何をもって「土人」と言ったのかは分からないが、私たちは「『土人』なんかじゃない、同じ日本人だ」という反応はしてはいけない。それでは自らに降りかかる火の粉を降り払っても、差別構造自体は容認していることになるからだ。
1903年の人類館事件の際、沖縄は「アイヌや台湾の人と同じに扱うな。私たちも日本人なのだ」と反応した。この113年間の歴史が示す通り、私たちが「日本人」となるため重ねた努力は何の解決ももたらさなかった。痛みや怒りと正しく向き合わなければ、差別を払拭(ふっしょく)できぬまま、私たちも差別者となる。
私が「女のくせに」と言われたとき、「私は女なんかじゃない」と返すほど滑稽なことはない。少数派や弱者であることが問題なのではなく、少数派や弱者を差別する社会が問題なのだ。多数派や権力側に付くことに価値を置き、彼らに同化する必要はない。
さまざまな人が共生するためには、少数派を差別する社会が悪いのだと認識することが必要だ。多数派の一部になることで得られるものはなにもない。少数派の人権が守られるよう働きかけることが私たちの役割だ。
(沖大非常勤講師)
◎小渕恵三さんが亡くなられた時の追悼演説で村山さんが小渕さんの沖縄への思いを称えたとありましたので、その追悼演説を:(Wikiより)
村山富市元首相による追悼演説(抜粋)
サミットを無難にこなすためなら、開催地は東京でも大阪、京都でもよかった。むしろ、東京から遠く離れ、今なお生活・産業基盤の整備がおくれている沖縄は避けるべきだという意見も当然あったはずです。ところが、君は毅然として、サミットの開催地を酷暑の沖縄に決断したのであります。
思えば、この沖縄サミットに、君の政治家としての誠実さが象徴的にあらわれています。君は、学生時代から何度も沖縄に足を運び、本土防衛のために二十三万人が犠牲となり、戦後は、アメリカの施政権のもとに、本土から切り離され、苦しい中で本土復帰を訴えた姿を目の当たりにして、沖縄への思いを心に刻みつけたと聞いています。
革新が、日米安保反対、沖縄の本土復帰を訴えて大規模なデモを組織した一九六〇年前後、君は保守の側で沖縄文化協会をつくり、沖縄問題への取り組みを始めていたのであります。
サミット開催に当たって無難を大事にするなら、若いころからの思いに目をつぶることでした。だが、やすきにつくため信念をあいまいにし沖縄の人々の痛みを無視することは、君には到底できない相談でした。だから、困難を承知で、あえて沖縄サミットに踏み切ったのです。その熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります。
七月二十一日から二十三日にかけて沖縄を訪れる先進国の首脳たちは、亜熱帯の美しい海、高い空、濃い緑、それに豊かな文化と人々の優しい人情に目をみはることでしょう。多くのマスコミが沖縄を全世界に報道することで、工業国の印象が強い日本が実は多様な歴史と文化を持った国であることを、改めて認識し直すに違いありません。そして、あの美しい沖縄で苛烈な戦いがあった歴史に思いをはせるとき、世界の平和に重要な責任を有している先進国の首脳たちは、平和のたっとさを改めて心に刻むはずです。
君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。
今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった。それが、悔やんでも悔やみ切れない思いとなって、私の心に大きなひっかかりとなっているのです。