◎内田樹氏のリツィート欄に、文化の日の昨日、国立公文書館の1946年(昭和21年)11月3日の昭和天皇の勅語がありました。読んでみると、戦後の日本国憲法の基本を押さえた内容です。「押し付け」というのは改憲のための「後付け」ですし、たとえ押し付けであっても新憲法を受け入れたのは戦争の犠牲と反省の上に平和な世界の実現を願った国民の総意であったことが分かります。率先してまず天皇が勅語で意義を…というのが戦後の出発を表わしてもいるようです。
内田樹さんがリツイート
国立公文書館 @JPNatArchives
日本国憲法が公布された昭和21年(1946)11月3日、貴族院本会議場において式典が催され、勅語が下されました。
画像は、日本国憲法公布式典において賜った勅語です。#日本国憲法 #文化の日
◎内田氏のマルクスの話を読んで、またゼミの先生を思い出しました。ドイツを追われたマルクス、当時一番自由な国はイギリスだった、マルクスの墓はイギリスにある、というお話でした。そのイギリスから、さらなる自由を求めて新大陸アメリカがあった。アメリカと中国の共産党が同い年生まれとは驚きでした。冷戦経過後の今、アメリカではマルクスは禁句? マッカーシズムの罪の深さ…色々考えさせられます。日本では小林多喜二の治安維持法、戦後のレッドパージがこれにあたるでしょうか。
内田樹 @levinassien 9時間
鳥取 鳥取市
▼今の日本が一番近いのはスターリンのソ連でも、ヒトラーのドイツでも、毛沢東の中国でもなく、マッカーシーとフーヴァーのアメリカでしょう。安倍政権がもう少し続けばきっと自民党は「反日活動委員会」と政治警察の創設を言い出すでしょう。
▼19世紀後半、ロシアやドイツでの労働運動弾圧を逃れた活動家たちはフランスからイギリスに渡り、さらなる政治的自由を求めてアメリカに移民しました。だから、20世紀はじめのアメリカで社会主義運動がきわめて活発だったのは当然です。アメリカ共産党の成立は1921年。中国共産党と同年です。
▼ロンドンで赤貧洗うが如きであったマルクスに仕事を提供したのは当時世界最大の発行部数を誇った英字紙NewYork Daily Tribuneでした。マルクスはここに10年間で800本の記事を寄稿しました。マルクスの記事は署名記事ではなくトリビューンの社説として掲げられたのです。
▼マルクスの記事はあまりに質が高かったので、社説に掲げられ、週刊誌に再録され、隔週誌にも再録されました。だから、当時のアメリカのインテリたちはマルクスを通じて(それと知らずに)ヨーロッパの政治情勢や資本主義分析を学んだのです。
▼若い頃のマルクスはアメリカの政治状況に希望を持ち、「ライン新聞」が潰れたあとにアメリカへの移住書類を申請しています。テキサス(!)に行きたかったそうです。過去改変SF「テキサスのマルクス」誰か映画にしてくれないかな。
▼「アメリカにおけるマルクス主義の受容と衰微」というのは日本のアメリカ政治史の専門家にとってもきわめて興味深い主題だと思うんですけれど、ほとんど研究書は見当たりません。マッカーシズムの追求を逃れるために、アメリカの知識人たちはマルクスへの関心を示す資料を廃棄したのでしょうか。
◎内田氏が「若者よマルクスを読もう」という本を書かれたのを思い出しました。なぜ日本でマルクスなのかを辺境だからとしておられます。そういえば辺境論がベストセラーの頃がありましたね。「まえがき」がブログに掲載されていましたので一部を引用です。「マネー・ワールド」のコメント欄に、社会主義的な政策も少しは見直されてほしいと書いてくださった方がおられましたが、同じことですね。(引用元:http://blog.tatsuru.com/2014/09/04_0618.php)
「若者よマルクスを読もう2」まえがき
◆このような本が合法的に出版されて、書店の店頭に配架され、中学生や高校生が手に取って読めるというような言論環境の社会は世界でも例外的であるということを僕たちは心にとどめておいた方がいいと思います。それは言い換えると、マルクス研究と、その理論の現実化については、僕たち日本人だけにしかできない仕事があるかもしれないということです。
◆マルクス主義もあるいは仏教と同じような運命をたどるのかも知れません。発祥の地では消滅し、それを掲げて立国した国が変質し、それを掲げた政党がさまざまな失敗を犯し、それが流れ着いた辺境においてだけ細々と棲息している。
◆マルクス主義はその「辺境に奇跡的に生き残っていて、最後に世界を救うアンチウィルス」かもしれない。そんな気が僕にはします。そのために僕たち日本人は「マルクスを守る」という世界史的使命を委ねられているのではないか