7月4日(アメリカの独立記念日ですね、関係ないんですけど…)の新聞を残しています。憲法について西村裕一北海道大学准教授の記事で、「経済教室」というコラムの「現実的な憲法論議とは(下)」というタイトルがついています。(上)が気になりますが、同じ西村氏の記事ではなかったようです。
憲法論議というと改憲派と護憲派の不毛なやり取りみたいでイヤになってしまいますが、この記事の内容は、日本の改憲派というものが、そもそも何を目指したのかをキチンと批判的に捉えて、そこから反作用的に、そうあってはならないという護憲派が生まれたこと、そして改憲派の古典派と現代のそれとの共通点も、明確に指摘されています。非常にスッキリします。それで、論旨をたどってみたいなと思いました。
・時代とともに憲法が現実に合わなくなり、解釈による運用でも限界を超えれば憲法改正が要求される・・・というのが憲法改正に至る通常のプロセス。
したがって、「現実的な憲法論議」では、「具体的な政策課題を実現するために憲法改正が必要かどうかという観点から議論がなされるはず」である。しかし、我が国はそうではない。・例えば、今年5月の安倍首相によって唐突に打ち出された教育無償化にせよ、9条への自衛隊明記にせよ、政策を具体化する法令の制定や憲法条文の解釈によって目的は実現する。あえて憲法改正をする必要がない、という結論になるのは自明。
*しかし、そこで話が終わらず、不合理な提案に付き合わなければならないのが我が国の憲法論議の現実。我が国の憲法論議は実にここから始まるのである。それはなぜか? 歴史を遡る。
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・ある憲法学者が「日本国憲法の歴史は改憲論の歴史でもあった」と述べるように、日本国憲法は制定当初から常に改憲論からの攻撃にさらされてきた。その始まりは1950年代初頭、日本国憲法の制定過程が明らかにされたことを契機に、押しつけ憲法論に基づく自主憲法制定論が登場した時点に求められる。すなわち、改憲論は日本国憲法の正当性そのものを疑う立場として誕生したのである。
◎これは一見すると、日本国憲法の「うまれ」を問題視する議論であるように思われるかもしれないが、改憲論の主眼は、憲法が占領下に制定されたという誰も否定できない事実を隠れ蓑にして、憲法の「はたらき」を変えてしまおうという点にあったと解すべきだろう。
◎なぜならそれは、国民主権・基本的人権・平和主義という基本原理をはじめとして、日本国憲法を丸ごとターゲットとするものだったからである。
●当時、改憲論が日本国憲法の「はたらき=理念」たる「人類普遍の原理」への攻撃と受け止められたのも、理由のないことではない。
◇翻って、改憲論の性格がそのようなものであった以上、憲法の「はたらき=理念」を守るべきだと考える人々にとっては、日本国憲法という法典を改憲論の攻撃から死守することが現実的な対応となるだろう。
◇それゆえ、しばしば戯画的に描かれるのとは異なり、「護憲派」は日本国憲法を「不磨の大典」として祭り上げようとしたわけでなく、日本国憲法の理念を否定するような改憲論に、その都度反対してきたというのが実態であるように思われる。
◇むしろ、日本国憲法という法典に強いこだわりを見せているのは、後述のように「改憲派」の側であったと解すべき。
◇これら古典的改憲論は60年代半ばには沈静化に向かった。しかし、現在の改憲論が当時のそれと断絶しているわけでない。
◇現在の我が国を代表する改憲論者である安倍首相が、かつて自著「新しい国へ」の中で「日本国憲法に象徴される、日本の戦後体制」であるところの「戦後レジームからの脱却」を訴えていたことからも明らか。
◇加えて、自民党が2012年にまとめた「日本国憲法改正草案」も全面的な改憲を企図していた。
◆このように、改憲論の底流に一貫して流れているのが日本国憲法の正当性への疑義であったという事実は、我が国の憲法論議を考える際に忘れてはならないように思われる。
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◆以上の歴史が教えるのは、表面上は個々の条文の是非をめぐって議論が展開されているように見えても、背後では日本国憲法それ自体の是非をめぐる闘争が繰り広げられているという、我が国の憲法論議の特徴である。
◇「改憲に賛成か反対か」という質問が通用するのも、ここでは日本国憲法についての政治的な立場が問われているのだという社会的な共通了解が存在するからだろう。
◇こうした特徴を理解して初めて、不合理な改憲案が手を変え品を変え提起されてきた理由も了解し得るように思われる。
▽例えば、多くの改憲案にみられる環境権の「加憲」についてみると、
・環境権は抽象的な権利であるため、具体化する法令がなければ憲法に書き込んでも無意味だし、
・逆に、具体化する法令があれば憲法に書き込むことは不要である。
▽にもかかわらず、そのような改憲案が提起されるとすれば、提案者の真の動機は別のところにあると考えざるを得ない。
▼すなわち、何でもいいから日本国憲法を変えてみたいという動機が隠れていることをうたがうべきなのである。
■なお、日本国憲法の弾力性の強さを理由に挙げて、憲法典の規律力を高めるために改正を行うべきだとの主張もあるが、にわかには賛同しがたい。
□なぜなら、9条と自衛隊の関係を上げるまでもなく、条文に一義的に反しているように見える事態でさえ、政府は解釈によって切り抜けてきたという実績があるからである。
■国民投票という一過性の祝祭によって憲法の威厳が高まることを期待するのも楽観的に過ぎる。規律を高めたところで「解釈改憲」を防ぐことはできないと考えるのが、現実的というものであろう。
◇もちろん、護憲派も日本国憲法を発展させるために必要な改正を否定するものではない。
◆ところが、いわゆる「お試し改憲論」にみられるような、改憲提案の真の動機が「改憲の自己目的化」であることが隠されてさえいないという事態は、我が国の憲法議論のあり方に深刻な影響を及ぼしている。
◇一体、二枚舌を公言しているに等しい者との間で、真剣な議論が成立し得るだろうか。
▲こうした言論空間の下では、解散権の制約や参議院の在り方などに関する真摯な改憲提案も、まっとうに受け止められることは期待できまい。
△もし憲法論議を活性化したいのであれば、論議を不毛にしている一時的な責任が改憲派自身に属することを、まずは知るべきである。
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・選挙制度改革に始まる1990年代以降の統治構造改革は、憲法改正を経ることなく「この国のかたち」を激変させた。
・けれども、政治主導を旗印に掲げた憲法改革の結末がネポティズム(縁故主義)を疑わせるような政治状況だとすれば、我が国の言論空間が取り組むべき眼前の課題は、研究者やメディアの言説を含めた改革過程の総体を検証することであろう。
・将来世代をより拘束することになる硬性憲法の改正を議論するためには、少なくともそれが必須の条件であるように思われる。