金曜デモと「この世界の片隅に」


◎昨日金曜日の官邸前再稼働反対のデモについて、いつものように「特別な1日」さんのデモのルポをご紹介です。今回のブログのタイトルは「『愚民税』と読書『人口と日本経済』、それに『1209再稼働反対!首相官邸前抗議』」です。まず、気になる『愚民税』?とは…ブログを訪ねて読んでほしいのですが、さわりの部分をコピーしますと:

ちょうど今朝、コラムニストの小田嶋隆氏が非常にいいことを言っていました。
カジノ解禁法案は、愚民税の増税
カジノ法案という“増税策”:日経ビジネスオンライン
確かにその通りかもしれません。政治に関心がなかったり、ポピュリズムに踊らされることで、国民は政治家や官僚・金持ちの不正、不公平な税制や補助金、それに戦争などの余計なコストを押し付けられますそれはまさに愚民税と呼ばれるのがふさわしい
カジノにしろ、原発にしろ、不公平な税制や一票の格差にしろ、様々な形で我々は通常の税金に加えて、『愚民税』というもう一つの税を払い続けるのだと思います。

◎SPYBOYさんは、「だいたい強引に法律を作ってまでカジノを作ろうなんていうのは、もうまともな方法では経済成長なんかできないのを国が認めてる、ってことですよね(笑)。」とも書いておられます。今、政治について考えないでいることのツケがいずれすべて自分たちにかかってくることがわからない愚民は重税を自ら許しているということですね。

ということで、今週も官邸前抗議へ。
今日の昼間は暖かかったです。午後6時の気温を14度。これくらいだと身体にも楽ですね。忙しい年の瀬だからでしょうか、今日は参加者の出足が悪くてどうなることかと思いましたが、結局 参加者は最近のアベレージの人数、主催者発表で800人。

川内原発再稼働されてしまいましたが・・・、

今週は川内原発が再稼働しちゃったけど、このままじゃ原発も愚民税になってしまいますよ。ほれ、この通り(笑)↓。それも安い金額じゃない。22兆円っていいますけど、消費税20%分/年ですよ!。


◎そして、前日が開戦記念日でしたが、「●最後は心温まるニュース。開戦記念日を迎えて、強制収容所から生き残った日系人たちが『今 イスラム教徒がかっての日系人と同じ目にあわされている』とアピール。本質的な指摘というだけでなく、これが人間同士の連帯だと思いました。」
これは素晴らしいすね。先日ブログで取り上げた日本の軍人、樋口季一郎ユダヤ人を助けたのも、自分がヨーロッパにいて差別を受けたとき助けられたことの恩返しだとありました。自分が味わった不幸は繰り返させたくない。自分が受けた恩は誰かほかの人に恩返しする。これぞ『人間同士の連帯』ですね。
★経済についてもたっぷりの内容とデモの様子をぜひブログで:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20161209/1481290397

◎先日我が家のお茶会で私が「この世界の片隅に」を観た話をしたのを聞いていたSさん、ヨーガの日、月曜日のNHKあさイチ」でこの映画を取り上げていたよと教えてくれました。「能年玲奈さん、名前を取り上げられてかわいそうね」と二人で。
すずさんに命を吹き込んだ”のん”さんですが、デビュー当時所属していた事務所が芸名とはいえ本名を使うなと主張・・・、理不尽極まりないことだと思いますが、そういうことが通用する世界なんですね。
◎その映画の監督片渕須直氏へのインタビュー記事が「日経ビジネスオンライン」に。前編だけでも長い記事がこちらです:

『「この世界の片隅に」は、一次資料の塊だ

アニメーション映画「この世界の片隅に片渕須直監督(前編)
松浦 晋也
2016年12月8日(木)


 映画が終わり、館内が明るくなった時、私(松浦)は右隣で観ていた老婦人が暗くなったスクリーンを見つめたまま、拭いもせずにぽろぽろと涙を流し続けているのに気が付いた。左隣は、高校か大学かの姉妹らしき2人組みだったのだが、2人とも手にハンカチを持っていて、時折目元を押さえていた。
 私はといえば、(とんでもない傑作をみた)とくらくらする頭を振っていた。あらかたの涙は鼻に流れ、ぐすぐず鼻をすすっていた。
 現在ロードショー公開中のアニメーション映画「この世界の片隅に」(監督:片渕須直)である。


 泣ける映画だが、泣けるだけの映画ではない。笑える映画だが笑えるだけの映画でもない。ホームドラマだがホームドラマというだけでもない。迫力の戦争映画だが、戦争一辺倒というわけでもない。
 その全てだ。
 地味と言えば地味な映画ではある。すずという18歳の絵を描くのが好きな女性が広島から呉に嫁ぎ、戦時下を生きる。その昭和18年から昭和21年までの生活を描いていく――が、その雰囲気、空気感、臨場感が尋常ではない。
 くらくらの頭のまま、日経ビジネスで私の記事(こちら)を担当している山中副編集長にメールしたところ、彼は早速観に行ってその価値を理解、映画のビジネス面を取材・記事化した(「映画『この世界の片隅に』に勝算はあった?」:2016年12月2日、参照)。さらに私に悪魔のような電話をしてきた。
 「プロデューサーにOKもらいました。片渕監督にインタビューできます。〆切短いですけど行きますよね!」――行きますとも!
 恐ろしいほどの臨場感はどのようにして達成されたのか。そして何のためにそれほどまでして臨場感を求めたのか。片渕須直監督が語ります。

★全文はコチラで:http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/230078/120600064/?P=1
(今朝,訪ねたら会員登録が必要になっていましたね、読めるところだけでも・・・)

◎さて、8日の開戦記念日のコーヒータイムで、母に75年前のこの日何をしてた?とききました。母は、代用教員で小学校で教えていて、職員室に帰るとラジオで軍艦マーチが鳴っていて大騒ぎだった。だけど、あの頃は何も知らなかったのよ、勝った勝ったで、なんでアメリカと戦争するのかもと母。
女学校を出て花嫁修業をしていた母に、戦争に取られて男先生が少なくなっているから、と同じ村で、どこかの校長先生をしていた親戚のオジサンに勧められて2,3年代用教員をしていました。開戦後の音楽の時間にはピアノで和音を弾いて、「この音がB29だから、この音が聞こえたら逃げるように」と教えていたそうです。
昭和17年には、大阪へ出てサラリーマンをしていた5歳年上で隣り町出身の父とお見合いして、12月に21歳で結婚しています。ちょうど映画のすずさんと似たころです。このころはまだ戦時中でも切迫したことはなく、お見合い期間中に大阪から来た父と金沢の兼六園へデイトにも出かけています。そして、私が誕生したのが19年4月。その一週間後に父に召集令状。空襲が激しくなり、母は乳飲み子の私を抱えて故郷の実家へ疎開。父は東京で皇居防衛の高射砲を撃っていましたが、南洋へやられる前の身体検査で肋膜が見つかり、熱海の療養所行き、そして終戦です。あの頃は戦争中でも、年頃になったら結婚するのが当たり前だった…と母も。これも、この世界の片隅の生活でした。