のんさんと国防婦人会【かんさい熱視線『女たちの戦争』】

◎先日、大友良英さんがのん(能年玲奈)さんのテレビ界締め出しについて書いた新聞記事を紹介したところ(8月5日の蛙ブログ)ですが、「ついに”解禁”か」の記事が出ました:
その前に、のんさんが声の主役を演じた「この世界の片隅に」が3日、NHKテレビで、そして10日には『#あちこちのすずさん』が放送されました。
◎ところで、13日(火曜日)、NHKかんさい熱視線」では、のんさんをスタジオに招いて大阪が発祥の地だという「国防婦人会」を取り上げました。夫は出だしを見て、大阪はもともと維新みたいなものが生まれる素地があったんだ~と。国防婦人会が大阪発。のんさんのテレビ出演解禁も大阪から…となれば、それもいいですね。なかなか丁寧な取材でしたので、全文を書き起こしてみました:

8月13日(火) 午後7時30分

かんさい熱視線「女たちの戦争 国防婦人会の記録」

https://www4.nhk.or.jp/P2852/x/2019-08-13/21/45697/8207019/

戦時中、万歳や軍歌で出征兵士を送り出した「国防婦人会」。そのルーツは大阪に。
息子の戦死に涙を流さず、「ありがとう」と強がるしかなかった母。戦時中、2000万人を擁した婦人会の女性だ。女性活躍の舞台はどのようにして物言えぬ場となったのか。
戦時中、万歳や軍歌で出征兵士を送り出した「国防婦人会」。のちに2000万人に膨らむ会のルーツは大阪にあった。見送りの少ない兵士に同情した主婦が茶でもてなしたのだ。女性が活躍する場が少なかった時代、会の活動は女性の心をつかみ組織は急拡大。しかし戦争の激化とともに会は「思想統制」の傾向を強め、妻や母は愛する人の戦死を悲しむことさえできなくなっていく。新たな資料と証言から、女たちの“心の戦争”に迫る。  

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のん『この世界の片隅で』で、すずを演じたのんです。映画の中ですずさんは、たすきをかけて婦人会の活動に参加していました

ーー兵士の見送りやお見舞いに来ていた婦人会は、多いとき2000万人が所属していました。その始まりは大阪で生まれた国防婦人会です。住民の婦人たちの呼びかけで始まったボランティアでした。

 しかし、戦争が激しくなると会の女性たちは自由にものが言えなくなっていきました。女性たちに何があったのでしょうか。今日は新たに見つかった資料からひも解いていきます。

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ーー大阪、築港(ちっこう)。かつて、ここから多くの兵士たちが中国大陸へと出征していった。今も港近くに住む大場シズエさん(99)。大場さんは見送りに参加した一人です。「ほんとにね、ここへ来るといつも思います。大きな船が着いて、いっぱい兵隊が乗って行きはる。桟橋を渡っていくの。うちの子が今渡った、うちの子も渡ったって。みんな泣いとる人なんか全然いませなんだもんね。」

ーー1931年満州事変。日本は現代中国の東北部・満州へ軍事行動を開始します。その翌年、見送りもなく出征していく兵士を不憫に思った大阪の主婦たちが、かっぽう着姿で見送りに駆け付けました。それが、後に全国に広まる大日本国防婦人会のはじまりでした。

 今回、会の設立直後から熱心に活動した主婦の肉声が見つかりました。それは、研究者のインタビューに答えたもの。

大阪天王寺で分会長を務めた当時30代の片桐ヨシノさん「心からの国防婦人会でしょうね。私が行かなかったら誰が見送りしてあげるかしらと思ってね。お恥ずかしいですけど。」

ーー片桐さんが活動にのめりこんだ理由の一つに家庭での仕事の面での窮屈な関係があります。女性は結婚すると自由に家を空けることもままならなかったのです。

片桐「お姑さんは絶対頭が上がりませんので。お姑さんには私は絶対服従でございましたから

ーーしかし、婦人会の活動では、”お国のため”という大義名分があるため堂々と家を出ることができました。

片桐「夜の夜中も帰ってこないことがありました。毎日毎日、体が疲れて、明日はよう出ないと帰ってくる。目が明くと、やはり行ってあげなきゃいかん思って行くんですよ。来る日も来る日も、カラスの泣かん日があっても片桐さんの来ない日がないというぐらい行ったもんです。」

国防婦人会の歌↓

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伊藤「今日は、映画『この世界の片隅に』ですずの声を演じたのんさんに来ていただきました。戦中、どんなふうに思いましたか?」

のんそこに生きている人たちの懸命に生きているということは、すごく感じますね

ーー女性に参政権がなかった時代、社会進出の舞台として女性たちの心を捉えていきます。

母親が国防婦人会の役員をしていた久保三也子さん(90)役員になったら白いエプロンつけて襷(たすき)で行ってましたよ。それまで母親なんて出番がなかったもんそれまでは『女子ども』で一括

生まれて親に従え、嫁いでからは夫に従え、老いては子に従えって、私、だれを従わしたらええのかって思ったから、よう覚えてんねん。」

ーー女性が社会で活躍できる場として急速に広がっていった国防婦人会。しかし、その裏には婦人会を通して国民を統制し監視する役割として利用しようとする陸軍の動きがありました。今回、見つかった資料の中にある軍人(国防婦人会の後ろ盾となった人物)の証言です。その目的は、戦争による食料不足に女性が不満を持たないようにするというもの:

陸軍・石井嘉穂元中将米騒動になったら困る。兵隊の送り迎えは付属的な仕事。本当の問題は女性の思想教育だった。男子が兵隊に行っても女子で守れるようにしましょうという教育を始めた。

信州大学・大串潤児教授「国は女性の力を借りて、国の戦争への不満を封じこめようとした」と指摘。「経済的に疲弊していたので、そういうなかで戦争することで社会に様々な意味での反軍的な感情が起こらないだろうか。そういうのを(国防婦人会を通して)事前に察知してコントロールしていく意味では思想統制だった。

ーー生きがいを求める女性とそこに軍の思惑が絡まって国防婦人会は全国に広まり巨大な組織へと変貌していったのです

のん懸命に生きる姿は感じますね。自由が少ない中で毎日必死に営んでいた。私だって力強く歩みたいのよってなるのはわかりますね。」

グラフを指しながら、伊藤「満州事変の翌年、50人だったのが、太平洋戦争の前になって1000万人まで・・・何がここまで女性たちの心をひきつけたと思いますか?」

のん家を守ってる自分たちも何かしなきゃいけない。生きがいを見つけるのが大変な時代。すずさんの場合は絵を描いたりとか、自分の才能を生かすことができない時代ですよね。その中で、自分でも必死になれるものがあるということは心の拠り所になるんじゃないかと思いました。私も婦人会に入ってせっせと頑張って活動していたと思います。」

ーーその後、婦人会は中国との戦争、太平洋戦争と泥沼化していく中で婦人会の役割も変貌していきます。20歳以上のほとんどの主婦を取り込む。活躍していた女性たちのあり方も大きな変化が生まれていた。

 1937年、日中戦争の激化とともに国内では食料や生活必需品が不足していった。女性たちは「贅沢は敵」と言って国の政策に従わない女性を糾弾するようになった

三重県大台町 当時小学生だった梅本多鶴子さん(85)「ここですね。長い袖の着物、着てたらホンマに切るよって国防婦人会の女性が裁ちばさみを持ち振袖などの着物を着る女性を取り締まっていた。」「お偉方みたいな気がしましたね。村長さんとか偉い人と同じように国防婦人会の人に威厳がありましたね。そやから反対する人は誰もいなかった。」

ーー梅本さんの母親,いとのさんは地域の会の副会長を務めていた。夫が高齢で出征できないため肩身の狭い思いをするようになっていた。

梅本さんどこどこの息子さんが、どこへ出征したとか外地へいたとか、そういう話で持ち切りでしたから。あんたとこは行っとらんから大きな顔をしたらダメよと、そうなてきますよね。

子どもは娘ばかり三人、”息子がいれば戦争に行かせられたのに”が母の口癖。女の子ばかりでは人の前に出られへんなと言って、そういう全体的な雰囲気でした。 戦争に行って命を捨てるのが普通に思ってましたから。

親として戦争に一人でも出していたら一人前、女の子で戦争に誰もいかないのは半人前以下。はっきり言葉に出すのは女の人だから

戦争ですよ、やっぱり。心の戦争やったと思います。」

--当時の女性の生き方を研究する滋賀県立大学の京楽眞帆子教授の「戦争が激化する中で国にどれだけ貢献できたかが女性の価値であるかのような空気で覆われていた。」

人間の母であるだけでなくて国の母であることにこそ意義があるとみんなが同意してコンセンサスが取れてみんなが乗った。お国のため社会のためになると公共的な形になりますね。その方が上等なんだ、上なんだ、個人の活動より公共の活動のほうが上なんだ」(蛙の独り言ーー自民党改憲案の「自由」が「公共の福祉」で政府の思い通りに制限できるようになっている考え方の下地がここにある!)

 --太平洋戦争が始まると政府は主な婦人団体を在郷婦人団体に統合。生活の隅々までコントロールするようになります

久保三也子(90)さん「空襲があったときのバケツリレー、あれもみんな婦人会のもとにやった。大変や思いながら絶対外されへん。上から来たんはあの時代はそうだった。うちは嫌です言うたら村八分。それこそ、配給はもらわれへんし生きていかれへんからね。みんなそんなもんやと思って生活してるから。従順やってんね、みんな

ーー女性たちは家族の戦死に涙を流すことさえ許されなくなっていきました。猿木すずさん(87)は、日中戦争で父を、太平洋戦争で兄を亡くしました。家には国防婦人会の女性たちが慰問に現れ名誉の戦死とたたえました

父親のいない家族写真、そこには白いエプロン姿の国防婦人会の女性が写っています。夫を亡くし近所の女性の助けを得て、しかさんは周囲との関係を良好にしていくため婦人会の活動にのめりこんでいきました。

猿木すずさん「その頃は名誉の戦死してきたら誉れやったでな。お国のためや、それで日にち送らせてもろとった、自己主義なこと言うておられんだで。」 

 夫の死後、1年後、今度は息子の清一さんが戦死したと役場の人から知らせを受けた。その時、母が返した言葉をすずさんは忘れることができない。

涙一つこぼさんへん、『ありがとうございます』って言うた。『お手数かけましてありがとうございます』って後へ続く言葉が『私の息子も間に合いました(役に立ちました)ですか』て返事したもん。あぁ、この人、えらいもんやなと思った。」

ーーそして戦争末期、婦人会の女性たちは戦火にさらされることになります。国防婦人会が生まれた築港が戦争で被害を受けた。

母親が国防婦人会の熱心な会員だった久保三也子さん(90)全部焼けてました。こっち側には何にもないほど焼け野原やった

ーー生き残った母たちが命じられたのは遺体処理でした

上からの通達で自分らの町会で亡くなった者は自分らが処理せえ言われた。穴掘って埋めて、真っ黒の人はそのまま埋めたらしいけど、半焼けの人なんかもう一回燃やして、そしたら、その臭い煙がね、各町会でやってるでしょう、たまらんかった言うてはった。」

ーー空襲ですべてを失った女性たちは芋のツルさえ奪い合うようになっていた。

芋を掘ってたら向かい側の人が見てて茎を分けてくれ言うて来るの。母は、お芋は私のところで食べるから、茎はあの人らに分けてあげるって茎を置いていったら、取り合いよ,けんか腰よ。私、見ていて情けなかった。それだけ、ものがなかった」

ーー国防婦人会の女性たちは、その後どのように生きたのでしょうか?

夫と息子を戦争で亡くしながら「ありがとう」としか言えなかった猿木すず(87)さんの母しかさん戦後も夫や息子の死について語ることはありませんでした。しかし、一度だけ胸の内を垣間見せたことがあります。

終戦から30年余り、猿木さんが子どもを事故で亡くした時のこと、母のしかさんが突然戦死した息子のことを話し始めたのです。

「『あんたは抱いてかばね(亡きがら)で顔見られるだけでも幸せや。私らはこの中に紙屑入っとったようなもんや』言うて・・・子を亡くするっちゅうことはつらい

ーー戦争末期、わずかな食料を奪い合う女性の姿を目の当たりにした久保三也子さんは、90歳になる今も毎日、新聞に目を凝らします。戦後女性が手にした男女平等、政治に参加できる権利の重みをかみしめながら生きてきた。

日本もね、女子ども言わへんようになったなと思ったよ。そやから、もう、みんな一斉に行ったもんね、選挙に。

(当時)私ら、どうのこうの言われへんかったから、戦争 始まったんやなって思った。そやから、今度は始まる前に、始まらせないように頑張って、にらんでんねん

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のん家族の死を悲しめないということはすごく辛いことだと思うので・・・それを自分の中に押し込めて押し込めて 、この為なんだって心を支えているって本当に苦しいことなんだな~て思いますね。」

伊藤「こちら、日中戦争当時出版された週刊誌なんです。表紙の写真は、幼い子どもを抱えた母親が戦死した夫の墓参りをしている写真で説明書きにこうあります。「あなたの尊い犠牲が実を結びました」。戦時中のあるべき女性の姿が書かれている。(上に「内閣情報部編集10月9日十セン」(10銭?)」の文字)

のん「戦争のためとか、国のためとか,子どものためとか、決められたものの中でやってかなきゃいけないってのも、生き苦しく感じる人もいたんじゃないかな~っていう風に思いますね。」

伊藤「今でも、そんなもんでしょとか、言ってもしょうがないんじゃとか、流されたりとか、言いたいことが言えないとか、あったりしませんか?」

のん「今、こういうことを言っちゃいけないとか、世の中的にこういう考えを持ったらルールからはずれるんだろうなってことありますね。

気をもって言おうという気持ちを持つことは、すごく反発されるかもしれないけれど、それは大丈夫っていうか、言ってもいい世の中になってる気がしていて、自分が本当に伝えたいことは言えるような気がします

伊藤「のんさんは、この時代を描いた新たな作品を公開されるらしいですが、どんな?」

のん「この世界のさらにいくつもの片隅に」という作品に新たに関わって,30分、新たなシーンが加わって公開されます」(終わり)

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