◎加藤陽子さんの「戦争まで」を12月2日の「特別な1日」さんのブログで知って以来、ネットでというより私が覗いているツィッターで加藤陽子氏の発言や考えがよく引用されています。まず、「戦争まで」を読んだSPYBOYさんから:
さてさて、読み終えたばかりの東大教授の加藤陽子氏の新刊『戦争まで』の感想です。
- 作者: 加藤陽子
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2016/08/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容は、加藤教授が歴史好きの高校生を集めて授業をした記録だそうです。
戦前 日本には太平洋戦争を回避するチャンスが3回あった。それは満州事変、日独伊三国同盟、日米交渉。満州事変のリットン調査団報告書や日米交渉は相手方が日本への宥和的な姿勢を示して戦争を回避しようとするものだったのに日本の政治家はそれを配慮しなかった、日独伊三国同盟では政府内でも危ないという声があったのに充分に内容を検討しないまま僅か20日間で妥結してしまった、というもの。
◎ハフィントンポストに加藤陽子氏の長いインタビュー記事があります。とても長いものですが、山崎氏のツィート欄ではその内容を少しまとめて紹介していますのでメモ代わりに:
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 12月9日 19:00
加藤陽子「私たちは日々、判断するのが極めて難しい問題に対し、答えを出せと日々迫られています」(HP)http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-precept-yoko-kato_n_13353792.html …
・「そのような悩ましい時、ちょっと立ち止まって『この問題の本質は、正しいかたちで選択肢に反映され、私の目の前に示されているかどうか、少し冷静に考えてみよう』といった態度が身につくのではないでしょうか」
・「その見せかけの選択肢の文句に惑わされることなく、問題の本質を正確に表示した選択肢を自ら頭に描き、ニュースを聞く必要があります」
・「戦後の価値で重要だったのは、憲法11条の『基本的人権の享有』と13条の『個人の尊重』でしょう。戦前との比較で特に肝に銘じたいのは、13条『すべて国民は、個人として尊重される』の、『個人』の部分です。この『個人として』という意味は、たとえ国家が『戦争をやる』と意思決定をしたとしても、それに従わず、国家に対峙する自由が認められているということです」
「戦後70年の価値観が揺らいでいる」歴史家の加藤陽子氏、太平洋戦争からTPPとトランプ現象を紐解く投稿日: 2016年12月08日 12時28分 JST 更新: 2016年12月08日 12時33分 JST
2016年は太平洋戦争開戦から75年、日本国憲法公布から70年と、戦後日本にとって節目の年だ。1年を振り返れば、7月には参院選の結果、憲法改正が現実味を増し、8月には天皇陛下が譲位の希望を示されるなど、戦後の枠組みが大きく変化する予兆を感じさせる年となった。
戦後生まれが総人口の8割を超え、私たちがこれまで経験したことのない大きな時代のうねりを前に、歴史からなにが学べるのだろうか。近著『戦争まで』で日本が太平洋戦争へと至る過程を論じた歴史家の加藤陽子・東京大学教授は、「戦前と比べ、安価な中等教育の機会を等しく付与した戦後社会は立派なもの」と評価する一方、TPP協定を例に、「国際舞台において、日本は賢明な狡猾さも身につけてよいのでは」と語る。その真意とは…。
★全文はコチラで:http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-precept-yoko-kato_n_13353792.html …
☆内容の見出しと一部を:
■「TPP」と「満州事変」を比較してみると…
■天皇陛下の譲位への対応は「国会」で
■揺らぐ「戦後70年」の価値観
――「戦争の再定義」というのは。
1937年の日中戦争から45年の敗戦までのあの戦争の位置付けを、もう一度考え直すということです。今でも、「日本は英・米・蘭から経済封鎖を受けたからやむにやまれず開戦を決意した」という説明がなされることがありますが、防衛戦争だったとの説明の仕方は、実のところ太平洋戦争中の1943年に、東條英機内閣の外相に就任した重光葵が意図的に採用したものでした。
太平洋戦争の再定義自体が、1943年〜44年の戦争中になされ始めたことが興味深いのです。もともとは英米側が1941年8月に戦争目的や戦後世界を語った声明に「大西洋憲章」がありました。それに匹敵するような論理を日本側も準備するため、またイタリアの降伏を目の当たりにして、戦後になされるかもしれない戦争裁判において、いかに説得力ある申し開きをするのか、そのための合理化が必要だったと思います。
事実、重光の主導で日本は1943年11月、欧米の植民地であったアジア諸国の指導者を集め、大東亜会議を開きました。「被支配民族の解放という英米の戦争目的は口先だけだが、日本側は確かに多くの国を独立させたではないか」と胸を張りました。しかし言うまでもなく、日本が太平洋戦争を開始したのは、東南アジアの植民地を独立させるためではなく、後付けの論理でした。
◎「女性天皇」についても”新憲法には書いてなく、容認だった”とも:
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 12月10日
HP(ハフポスト)の加藤陽子さんのインタビュー記事(http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-precept-yoko-kato_n_13353792.html …)では、天皇の譲位問題や女性天皇の問題についても言及されている。
・「皇室典範が議論された帝国議会の議論で興味深いのは、新しい憲法には、女性が天皇になってはいけないと書いてないということで、意外にも、女性天皇について容認する考えが委員会レベルでは多かったことです。1946年の第91回帝国議会の皇室典範案の審議では、『新憲法の精神からも、ただ女性であるということで皇位継承資格がないとする理由はなく、女性も皇位継承資格を有するようにすべき』といった議論もあった。当時は、憲法の規定に従おうという姿勢が顕著に見られた」
・「憲法に書いてないということは、女性天皇は禁じられていない、との原則的な議論でした」
・「内閣側も、国民の意見を代表しているとは言いがたい有識者を呼ぶことなどせず、まずは国会で皇室典範改正案の議論をすべきです」
最後の一文が鋭い。
◎同じ山崎氏が取り上げている憲法学者の木村草太氏、「伊藤博文が天皇は『お飾り』であるべきと考えていた」と。これは分かる気がします。長州をはじめとする御一新一行は『錦の御旗』を掲げて江戸征伐に出かけて『お飾り』の多大な恩恵を受けていたはずですので。
山崎 雅弘 @mas__yamazaki 12月9日
木村草太「生前退位を法制化するのであれば、一代限りの特別法ではなく、皇室典範を改正するのが望ましい」(BLOGOS)http://blogos.com/article/200236/
「伊藤(博文)は次のように考えていたようだ。天皇を『操り人形』に喩えたという記録もあるように(長尾龍一『思想としての日本憲法史』206頁)、伊藤は、天皇は政府の決定を形式的に正統化するだけの『お飾り』であるべきと考えていた。資質があろうとなかろうと、天皇を退位させる必要はない。生前退位の制度は、強制退位や院政の危険を招くだけなので不要・有害だ、と」「天皇の人権という観点からしても、生前退位を認めるべきだと言える」
渡部昇一氏はじめ、日本会議系人士が退位に反対し、摂政で対応すべきだと主張するのも、伊藤博文と同様、天皇を「政府の決定を形式的に正統化するだけのお飾り」あるいは「操り人間」と見ているからだろう。天皇の人権という論点は、とりわけ重要な問題だと思う。