NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」(その3)

下士官と少尉、二人の行方

作戦中止後、牟田口司令官は兵士たちに先駆けて現場を離脱。そして、その任を解かれ帰国しました



一方、田口司令官に仕え、『味方5000人を殺せば陣地をとれると』いう言葉を記録していた第15軍の齋藤博圀少尉は前線でマラリアにかかり置き去りにされました。
密林中に雨は止まぬ。喘ぎ喘ぎ十メートル歩いては休む。二十メートル行っては転がるように座る。道端の死体が俺の行く末を暗示する。」(齋藤博圀少尉の日誌より)


雨期の到来後、マラリア赤痢などが一気に広がり病死が増えていきました。死者の半数は戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのです
一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団は後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退しました。しかし、ようやく辿り着いた村に食糧はありませんでした。


分隊長だった佐藤哲(97)さんは隊員たちと山中で、猛獣が兵士たちを襲うのを何度も目にする。
インドヒョウが人間を食うてるところは見たことあるよ。2回も3回も見ることあった
ハゲタカもそうだよ。転ばないうちは、人が立って歩いてるうちはハゲタカもかかってこねえけども転んでしまえばダメだ、いきなり飛びついてくる。」
第31師団衛生隊にいた元上等兵望月耕一(94)さんが戦場から持ち帰ったハンゴウ。
武器は捨てても煮炊きのできるハンゴウを手放す者は一人もいません。

望月さんは戦場で目にしたものを絵にかいてきました。最も多く描いたのが飢えた仲間たちの姿です。

一人でいると肉切って食われちゃうじゃん。日本同士でね殺してね、その肉をもって物々交換とか
それだけ落ちぶれていたわけだよ日本軍がね。友軍の肉を切って取って物々交換したり売りに行ったりね
そんな軍隊だった。それがインパール戦だよ。」


作戦開始時にも渡ったチンドウィン河
この河のほとりに死者3割が集中していることが分かった。
白骨街道をようやく抜けた先に立ちはだかった濁流
兵士たちはここで力尽きたのです。

第31師団山砲兵第31連隊元上等兵山田直男(95)さんは、病死とされた戦友の一人を指して、その最後を語りました

これは病死ですな、病死やな。」「これは病死、言うたら病死かもしれんけど、自殺みたいなもんよ。」
剣を心臓にぶち込んだ。ぶち込む力はなかったけどな。」
剣を上向けといてな、自分の体ごと上に乗せたんよ。そやけん、もう、あっという間やったわな。」
これはわしも実際のことは絶対はなさなんだよ。お母さんがおったけんな。」「かわいそうだけんな。病気で死んだぐらいしか言わなんだ。」

◎前線に置き去りにされた斎藤博圀少尉
チンドウィン河の近くで生死をさまよっていました。


 「7月26日、死ねば往来する兵がすぐ裸にして一切の装具を褌にいたるまではいで持っていってしまう。修羅場である。生きんがためには行軍同士もない。死体さえも食えば腹がはるんだと兵が言う。
 野戦患者収容所では足手まといとなる患者全員に最後の乾パン一食分と小銃弾、手りゅう弾を与え七百余名を自決せしめ死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。
 私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の回想録より)


◎いったい何人がこの河を渡ることができたのか

国の正式の戦史にもその記録はありません。


◆太平洋戦争で、戦死者約3万、傷病者4万とも言われる最も無謀なインパール作戦に、軍の上層部は戦後どう向き合ったのか責任転嫁と正当化


田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦上司の指示だった」と綴られていました。



一方、インパール作戦を認可した大陸指には大本営上級幹部の数々の押印があります。

そのひとりは:
インド進攻という点では大本営はどの時点であれ一度もいかなる計画も立案したことはないインパール作戦大本営が担うべき責任というよりも南方軍ビルマ方面軍そして第15軍の責任範囲の拡大である」(大本営作戦課長 服部卓四郎大佐 イギリスの調書より)




田口司令官の遺品の中に古びた洋書がある。
インド国境で戦ったイギリス軍アーサー・バーカー中佐と牟田口司令官は晩年、手紙をやり取りしていました。

田口司令官はバーカー中佐が自らの作戦を評価してくれていると感じました。
70歳を過ぎた牟田口司令官は国会図書館に赴き、作戦の正当性を記録に残しました。

終戦後19年間、私は苦しみ抜いて日本国内で『牟田口の馬鹿野郎馬鹿野郎』とすべての雑誌でも戦記ものでも叩かれておったんですが、私は神様のお告げではないかというぐらいにこのバーカーの手紙を喜びました。私ども戦争当事者としてとった作戦の方針ならびに指導なりが時宜に的中していたことは事実に徴して証拠立てられた場合その喜びはいかなるものであるかをお察し願いたい。」(牟田口司令官 音声テープより)


1966年、牟田口廉也司令官は77歳でこの世を去りました


田口司令官に仕えて詳しい記録を書いていた齋藤博圀少尉

敗戦後、連合軍の捕虜となり1946年に帰国しました。


その後、結婚し家族に恵まれましたが

戦争について語ることはありませんでした



73年前、23歳だった斎藤博圀少尉は死線をさまよいながら連日の記録を書き続けた


片足を泥中に突っ込んだまま力尽きて死んでいるもの水をのまんとして水に打たれている死体そういえば死体には兵・軍属が多く
将校・下士官は死んではいない。」

(見たくないと言いながら書きしたためた記録と対面。)
(顔をゆがめ声を絞り出して…最後は慟哭して・・・)



「よく見つけたなぁ〜」
「あんまり見たくないね」
「あんまりね〜」
「あぁ、インパール」沈黙




「日本の軍人がこれだけ死ねば(陣地)が取れる」
「自分たちが計画した戦が成功した」
「日本の軍隊の上層部が、ん〜」

「悔しいけれど」

「兵隊に……対する……考えは……そんなもんです」

「(その内実を)知っちゃったら…辛いです・・・」

「生き残りたる悲しみは死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい」

「国家の指導者層の理念に疑いを抱く
望みなき戦を戦う 世にこれほどの悲惨事があろうか」

 
 


◎「戦慄の記録 インパール」再放送:2017年8月26日(土)午前0時50分〜2時03分(25日深夜)