「山際京大総長の卒業式式辞」と、内田樹氏の「受験生のみなさんへ」


◎卒業、入学、人生の節目を迎える季節ですね。我が家にも小学校を卒業して4月から中学生になる孫と小学生の弟を妹夫婦が連れてきました。2泊して、90歳年長の曽祖父ちゃんに別れを言って、入院している曾祖母ちゃんを見舞って帰っていきました。母もまさかの入院でしたが、年が明けてすぐにお祝いの品を選んで二人分のプレゼントを準備していましたので、渡すことができました。夫の一行を乗せた車が出た後、片付け物をしたり選択をしたり。帰った夫と布団類を整理して一段落してやっと花見に桜のトンネルを目指しました。葉桜になりかけですが青空に映えてお花見日和です。
今日、内田樹氏のツィッターに、京大総長の山際氏の京都大学卒業生に向けての送る言葉が紹介されていました。この混とんとした今の時代に新しく社会に出ていく若者たちへの言葉、一部をコピーしてみました:(国会で証人喚問を受けている佐川さんみたいな大人になるんじゃないよ……と思いながらキーを打っています)

なかのとおる
‏@handainakano 3月27日
京大・山極総長の卒業式・式辞、これですね。格調高い。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/president/speech/2016/170324_2.html

西岡研介
@biriksk

山極学長の送辞、さすが
20:20 - 2018年3月26日


平成28年度卒業式 式辞(2017年3月24日)


・ この理念は今もしっかりと大学に息づいていると私は信じています。開学以来、京都大学は対話を根幹とした自由の学風を伝統としてきました。学生も教職員も世間の常識とは少し距離を置き、この世界を構成する真理の探究とともに、先人が残した知の集積に向き合い、自らの生きる力を磨いてきました。これから皆さんはそれを用いて世界へと出て行くのです。果たして皆さんの生きる力は、かつてオルテガが望んだように、この時代の理念の高さに達しているでしょうか。


 京都大学は「地球社会の調和ある共存」を達成すべき大きなテーマとして掲げてきました現代はこの調和が崩れ、多様な考えを持つ人々の共存が危うくなっている時代です。皆さんもこれから世界のあちこちでこのテーマに抵触する事態に出会うことでしょう。そのとき、京都大学の自由な討論の精神を発揮して、果敢に課題に向き合ってほしいと思います。皆さんがこれから示すふるまいや行動は、京都大学のOB、OGとして世間の注目を浴び、皆さんの後に続く在校生たちの指針となるでしょう。これから皆さんの進む道は大きく分かれていきます。しかし、昨年私が京大ヒュッテで体験したように、将来それは再び交差することがあるはずです。そのときに、京都大学の卒業生として誇れる出会いをしていただけることを私は切に願っております。


◎もう一つ、「受験生の皆さんへ」というこれから大学受験する高校生に向けて年長者からの贈る言葉内田樹氏が書いています。深刻で、気が滅入るような日本の大学教育の現状について書かれています。だからこそ、”君たち受験生,ガンバレ!”のエールだと思って読んでほしい内容です。ぜひ、全文をこちらのブログ(3月23日)で:http://blog.tatsuru.com/2018/03/23_0849.php
その一部をここに張り付けてみます:

受験生のみなさんへ


サンデー毎日」の先週号に「受験生のみなさんへ」と題するエッセイを寄稿した。
高校生や中学生もできたら小学生も読んで欲しい。


受験生のみなさんへ。
こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。


それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います
見た目は立派です。僕が大学生だった頃に比べたら、校舎ははるかにきれいだし、教室にはエアコンも装備されているし、トイレはシャワー付きだし、コンピュータだって並んでいる。でも、そこで研究教育に携わっている人たちの顔色は冴えません。それは「日本の大学は落ち目だ」という実感が大学人の間には無言のうちに広く深く行き渡っているからです。
日本のメディアはこの話をしたがりません。ですから、はっきりとデータを突き付けて「日本の大学が落ち目」だという事実を知らせてくれたのは海外メディアでした。


「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした
その記事は日本の大学の学術的発信力の低下の現実を人口当たり論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけです)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD内でほぼつねに最下位)や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学教育の過去30年間の試みは「全面的な失敗」だったと結論づけました。



記事は日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていました。


批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。
問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません(ついでに申し上げておきますけれど、過去30年で英語力も著しく低下しました。現在、大学入学者の多くが英語をまともに読めず、書けないために、大学では中学レベルの文法基礎の補習を余儀なくされています)。


日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということですしかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。・・・


<中略>

じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。


どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況はこれから少子化高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。


ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。ご健闘を祈ります。