ペシャワール会村上優会長弔辞「中村哲先生と犠牲者の御霊に事業の継続を誓います」

◎年末にペシャワール会12月25日付の号外が届きました。心配していた事業は継続されることになりました。表紙に今は亡き中村哲氏の雄姿が。そして次のような言葉が:

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「マルワリード用水路 」は、逃げ場を失った多くの人々に希望を与え続けるだろう。私もその一人である。「アフガニスタン」は忘れ去られたが、私たちの共有した労苦と喜びの結晶は、人々の命の営みが続く限り記憶されるだろう。

これは人間の仕事である。

                 中村 哲

                  『医者、用水路を拓く』より 

ペシャワール会会長で葬儀委員長を務められた村上優氏の告別式での弔辞が掲載されています。

中村哲氏との出会いやペシャワール会の成り立ちが書かれていますし、とても思いのこもった内容ですので全文を書き移してみます。

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十二月四日(水)、中村哲医師が、いつものようにジャララバードの宿舎を出て作業現場に向かう途中何者かに銃撃され、病院に移送された後、亡くなりました。享年七十三歳。また、同乗していたドライバーのザイヌッラ・モーサム(Zainullah Musam)さんと四人の護衛の方々も殉職されました。

中村医師を初め皆様のご冥福を祈るとともに、ここに追悼の意を表し「号外」を発行致します。

中村先生の絶筆となった「信じて生きる山の民」(西日本新聞、十二月二日掲載)を十一・十二頁に転載しております。

先生と犠牲者の御霊(みたま)に事業の継続を誓います

   中村哲医師告別式での弔辞ー

        ペシャワール会会長・葬儀委員長 村上 優

 告別式の前日、ジア先生たち四名でご自宅を弔問しました。中村先生のご家族だけで最後の時を過ごしたいというご意向を尊重していましたが、アフガニスタンより同行して来日したPMS(平和医療団・日本)院長補佐のジア先生、ディダール技師の訪問のお許しを得ました。悲しみの中でのお悔やみに始まり、中村先生の事業を引き継ぐこと、そして中村先生の教えは私の心の中で生きているというジア先生を受け入れていただき,ご家族と打ち解けて話が進みました。小さなお孫さんが出てくるとジア先生は抱き上げて、嬉しそうに、また親しげに接しながら、ジャララバードのスタッフハウスで中村先生と同居していた時に孫の話がよく出ていたことなど、和やかで家族思いな中村先生の一面を披露していただきました。その後は中村先生の前で皆さんと何度も写真を撮り、またこれからの協働を約束しました。

 告別式には全国から多数の方に参列いただき、ありがとうございました。事業継続を皆様の前で誓うことができました。

追悼の辞

 中村哲先生。先生の御霊を前にお話しするなど考えもしませんでした。今の私には、先生の死を受け入れる余裕はありません。いくら力を振り絞っても、押し寄せる悲しみに圧倒されるばかりです。ですがペシャワール会の会員を代表して言葉を述べよと多くの人々が私を後押ししています。中村先生、力をお与えください。

 中村先生。 先生がヒンズークシュ山脈のティリチミールに登頂された翌年の一九七九年、トレッキングに誘っていただきましたね。足を延ばしてカイバル峠を越えてヘラートまで、さらにバーミアンまでと計画していました。しかし旧ソ連軍によるアフガン侵攻で国境が閉鎖されたと聞いて、ヒンズークシュ山脈の麓(ふもと)のギルギットに赴きました。山の中で満天の星を見ながら、命について語り明かしたのが長い交誼(こうぎ)の始まりでした。そのとき先生は、命の不平等について強い口調で語られました。山岳部にすむ貧しい人たちが簡単な病気で亡くなっていくのを見て、手を差し伸べないことの不条理さを語っておられました。

 その後先生は、一九八四年五月にペシャワール・ミッション病院に赴任されました。パキスタン北西辺境州でのハンセン病根絶計画を担うためです。ペシャワール会は、先生の医療活動を支えるために、その前年に七〇〇名の仲間が集い発足しました。

 それから三十六年の月日が経ちます。

 中村先生。幾多の困難がありましたね。当時のペシャワールには三〇〇万人を超える難民が押し寄せていました。先生は、その苦難について私たちに語ることは少なく、人の命の不平等や世の中の不条理なことについては、心の中に押し込めて、いつも前を向いて淡々と歩まれました。

 ミッション病院を出て一九八六年には、JAMS(Japan-Afghan Medical Services)を創られ、それを核にPMS基地病院を創られました。その前には、アフガン東部の、誰も手を差し伸べたことのない山岳最深部のダラエヌール、ダラエピーチ、ワマに診療所を作られました。

 二〇〇一年の9・11事件後の米軍によるアフガン空爆の時には、飢えや寒さで餓死寸前の二〇万人以上の人々に小麦粉や食料油も届け、首都のカブールに臨時診療所を五カ所作られました。

 そういう戦乱が続く中で、二〇〇〇年からは、追い討ちをかけるように大干ばつがおこりました。中村先生が井戸を掘ると言い出されたときも戸惑いましたが、農業用水路作ると言い出された時には、そんなことできるのかと不安がつのりました。先生は、それが人々の命を助けるために必要だからという理由を挙げられましたね。人を理解する深い洞察力を源泉として、分かりやすい言葉でいつも語られました。そしてそれを黙々と実践してゆかれ、井戸を掘り、用水路や堰を造り、一六、五〇〇ヘクタールの大地を緑に甦らせました。

 でも先生は、そんな大きな仕事を成し遂げながら、おっしゃることは、とても平易なことでした。人の幸せとは、「三度のご飯が食べられて、家族がいっしょに穏やかに暮らせることだ」

 中村先生。先生が筑後川の山田堰から学んだ取水堰の伝統工法は、PMS方式という名で、アフガニスタンに根付き、将来的にはアフガニスタン全土に拡がろうとしています先生に「名誉市民証」を授与されたアフガニスタン・イスラム共和国のガニ大統領は、PMS方式こそ、農業国アフガニスタン復興の「鍵」だとおっしゃいました。

 日本では、何度も皇居に招かれて当時の天皇陛下皇后陛下に活動報告をされ、「思わぬところに理解者がおられた」と語られていましたね。

 中村先生は良心を生きてこられました。いつか「アフガニスタンにはよい人も、悪い人もいる、が、それを含めて共に生きている」と話されました。先生は、この三五年間、アフガニスタンや日本の膨大な人々のこころの支えとして、実のある事業を完成させて来られました。そういう中で凶弾に倒れられ、尊い犠牲者になられました。

 中村先生だけでなくザイヌッラーさんも死去されました。中村先生付きのドライバーで、行動をいつも共にしていましたから、現場では右腕のような存在でした。警備の方々も亡くなられて大きな悲しみに包まれています。逝去されたすべての方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 先生は誰も彼も分け隔てなく、丸腰で歩まれました。これも天の思し召しなのでしょうか。先生の尊い犠牲は私たちに前を向いて進めて力を込めて後押しをしています

 言葉を失って悲しみや喪失感などを越えて、押し寄せる記憶があります。先生が書かれたこと、話されたこと、言葉を交わしたこと、そしてペシャワールアフガニスタンで共に体験したこと、その昔ヒンズークシュ山脈の麓を旅したことが脳裏を駆け巡ります。支援していただいた皆様もそれぞれの「中村哲医師」との想いを共にしていただけると思います。中村先生を介してペシャワール会としてつながった人の輪があり、会員や支援者の皆様がおられます。

 私たちは先生の御霊に誓います。

 第一に、ペシャワール会中村哲先生の意思を守り事業継続に全力を挙げます。遺志ではなく、今も私たちの心の中で生きておられる中村哲先生の意思として。

 第二に、これまで中村哲先生がいつもされていたように、遠い先を見つつ、決して後ろを向かず前を向いて歩みます。様々な困難を超えてこられた中村先生は、今でも私のこころの中で語りかけてくださいます。その声と語り合いながら、会員や支援者の皆様と共に、アフガニスタンの人々、平和を望む人々と事業の支援を続けます。

 これから中村先生が目の前におられない中で、どのようにPMSの事業を維持できるか、不安ではありますが、支援してくださる人々と共に歩んでまいります。

 私は四五年前に中村哲という人に出会いました。中村哲という人が人生の横にいたことが、私の、そして多くの人々の人生の最大の幸いだったと思っています出会いが人を変える、その出会いを選択するかどうかは私たち一人一人の手にあると感じています。

 これまでのお導き、ありがとうございました。

      二〇一九年十二月十一日

    NNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNNN (追悼文引用終わり)

◇絶筆記事は次回こちら:《中村哲医師 絶筆》『信じて生きる山の民ーアフガニスタンは何を啓示するのか』 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~