中村哲さん「見捨てない覚悟の『非武装』」(安田純平)と「中村哲さんの言葉」など

 手元に朝日新聞の切り抜きが3枚あります。

🔲一つは19日付の福島申二編集委員のコラム「日曜に想う」。

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「無類の人間好き」が潤した荒野

・中村さんを「無類の人間好き」と評していたのは親交の深かった澤地久枝さん。平凡な表現にみえて、深い敬愛がこもる言葉だと思う。

・「人類を愛する人間嫌い」という言葉や、「人類を全体として愛することの方が、隣人を愛するよりも容易である」という言葉もあるほど、人類」という抽象に対して、一人一人の人間は具体的な現実であり、人類は美しいが人間は往々にして厄介だ。

・中村さんは「人類」という大きな言葉の先にある、個々の生身の人間と、とことん.対等に関わってきた。

・「自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍でついても平気だという感覚、これがなくならない限り駄目ですね

・言葉の奥に、平和憲法を尊んだ中村さんの確かな意志があることを疑わない。

🔲2枚目は1月25日の「お別れの会」以前に書かれた記事

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・2013年に亡くなった劇作家の井上ひさしさんの生まれ故郷山形県川西町にある「遅筆堂文庫」では、2月2日まで、中村さんを追悼する特別企画展が開かれた。

学芸員の遠藤敦子さんによると、井上さんは中村さんの著書に感銘を受け、ペシャワール会に入会。01年11月に、神奈川県鎌倉市で井上さんが司会をし、中村さんの活動報告会を開いた。

アフガニスタンで仏像破壊問題が起きた時でもペシャワール会に資金をよせてくれた人たちがいたことについて、中村さんは著書で「いつの世でも、真実の声は少数である」と記した。その一文を、井上さんは蛍光ペンでなぞっている。

・遠藤さんは「井上先生は自分で見て、聞き、考えることを基本姿勢としていた。中村さんのように現地に飛び込み、実践した力強さ、そこから発信される言葉の真実を大切にしていた」と語る。

🔲三枚目は「ひもとく」というコラムでタイトルは「中村哲さんと国際貢献
 74年生まれで、シリアで武装勢力に拘束されたことのあるジャーナリストの安田純平さんが3冊の著作を並べて「『見捨てない』覚悟の非武装」と題した記事です。

中村哲さんは、泥沼の戦乱の中で非武装を貫いた。人々の信頼を得て活動を続けた来たその存在は、紛争地取材をしてきた私にとっても大変な励みになっていた」と書いて安田純平さんは、「中村さんが襲撃された際、武装した護衛を付けていたことは意外に思った」ことから、三冊の著作をたどって中村哲さんの非武装の考え方を追っていきます。今回、「防弾車でない2台だけで、狙われやすい1台目のリーダーの席に中村さん、武装要員ら4人は2台目に乗っていたという。中村さんを狙う襲撃計画を現地州政府が察知し本人に伝えていたというが、護衛の体をなしていないように見える」ことから、「中村さんは本心では護衛を望まず、あくまで人々を信頼する姿勢を貫くため”丸腰”のような護衛体制だったのではないか」と結論付けています。

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ひもとく 中村哲さんと国際貢献

         ジャーナリスト 安田 純平

「見捨てない覚悟」の非武装

  (前略)

 現地にこだわり

 『アフガニスタンの診療所から

・1978年に登山隊に参加して初めてアフガニスタンを訪れた際、山岳地帯で自給自足の暮らしをする村々で、一目で病人と分かる人に追いすがられながらも見捨てざるを得ず、職業人として「深い傷になって残った」という。

・この後、アフガンに接するパキスタンのペシャワルの病院にハンセン病対策支援絵着任。絶望的な状況に置かれた患者たちの無残な姿に接して苦悩し、人々により深く寄り添っていく。

・79年にアフガンに侵攻したソ連軍の撤退が88年に決まると復興支援ラッシュとなったが、91年の湾岸戦争の勃発で欧米人は「あっさりと現地を見捨てて」去っていく逆に中村さんはアフガンの山岳地帯に診療所を設け、武力抗争や略奪が横行する中でも「決死の覚悟」で非武装を徹底し、「よそ者」を警戒する村人からの信頼を得る。「武装がもっとも安価で強力な武器」の境地に達した瞬間だ。

 60万人救う事業

医者 井戸を掘る

・2000年からのアフガンの大干ばつの対策として行った枯れた井戸を掘り返す事業の記録。

・06年までに1600本の井戸を掘った。100万人が飢えようとしている危機にもかかわらず、タリバーン政権を認めない国際社会は制裁を決議。怒るタリバーンバーミヤンの石仏を破壊し、ますます孤立して外国人が去る。しかし、中村さんは「見捨てない」と主都カブールでの診療計画に乗り出す。

天、共に在り』 

アフガンの砂漠化した大地に用水路を通し、1万6千ヘクタールの農地を潤して60万人の命を救う大事業が展開される。だが、01年に侵攻した米軍による「対テロ戦争はモスクや学校の誤爆が続き、「反感と復讐心を人々の間に増幅」させ、治安は悪化の一途をたどる。水利権や土地をめぐる対立もあり、情勢は複雑だ。

・08年、日本人撤退を決めたが伊藤さんが殺害された。だが中村さんは現地職員に「見捨てることはない」と語りかける。実は前後して現地スタッフも2人殺されている。現地で生きるしかない住民がいる

01年以降、米兵はアフガンで2200人以上戦死。武装すればそれ以上の武力で襲われる。狙われれば防ぎようはない。護衛は周囲に対する威嚇で市民を誤射することもある。中村さんは本心では護衛を望まず、あくまで人々を信頼する姿勢を貫くため”丸腰”のような護衛体制だったのではいか。 

◎1月25日のお別れ会の様子

西日本新聞が過去の記事をまとめて中村さんのサイトを設けました:

中村哲さんの言葉をまとめています:

 ◎中村哲氏追悼の記事、次回につづく