(本日、二つ目)
◎一昨日は30年ほど前に我が家を訪ねて来て下さった浜松の旧友からの懐かしい電話、その翌日は神奈川のその頃からの友人と電話で長話になりました。どちらも用件というか話は別にあったのですが、電話の後半は安倍元首相の銃撃事件でした。悲しくなかった、悪いけど自業自得だと思った。同窓生仲間のラインで「無事を祈りましょう」という一報が入ったが16人いる仲間からは誰一人書き込みは無く無音だったとか、日本を無茶苦茶にした安倍氏を何故国葬にしたがるのかという話になって、みんなおんなじ思いなのか~と一寸驚きました。
統一教会の力を借りて国会議員になったり首相になったりしていたわけだから解散、選挙のやり直しで出直しがイイとか、そんな話にもなりましたが、一番の問題はNHKでした。あからさまに統一教会問題を無視する公共放送と、テレビ朝日のモーニングショー。有田氏が「政治の力」と発言した翌日から一切統一教会問題を取り上げないのはオカシイと。浜松の方は用件自体よりこんな話がしたかったと言われたので、三枝成彰さんの「国葬に反対する理由」という記事をとりあげた私のブログを紹介しました。音楽仲間だったので、「あ~あの作曲家の」とすぐわかってもらえました。
🔲こういう状況の中で、NHKが急に統一教会問題を取り上げ始めています:
◎この経緯についてはブログ仲間の”よんばば”さんが「昨日あたりから、ちょっとだけ気持ちが上向いている。なぜかと言えば、「#もうNHKに金払いたくない」というハッシュタグがTwitterでトレンドとなり、それに慌てたNHKが、旧統一教会に関する報道を遅ればせながら始めたからだ」とブログで。「国葬撤回を求めるネット署名」も出来ます。詳しくはコチラで:中っくらいのスイミーにはなれたかな? - あとは野となれ山となれ (hatenadiary.com)
キャンペーン · #安倍元首相の国葬に反対し計画の撤回を求めます · Change.org
◎中幼稚園の西側の畑に夏の花、サルスベリ(百日紅)が咲いています。
百日ですから、三か月咲き続ける花ですね。
🔲4日の「週刊文春」の新聞広告に、この見出しの写真がありました:
◎手元に8月1日の朝日新聞の切り抜きがあります。中島武志氏の「元首相銃撃/いま問われるもの」という論考記事です。
前半は戦前期、1921年の「個人の鬱屈から引き起こされた安田善次郎刺殺事件(右翼青年の朝日平吾が安田財閥の創始者を殺害した事件)が参考になるとして挙げています。「自分の不幸は天皇の重臣とその取り巻きが悪い政治をしていると決めつけ、財界要人に社会活動への「寄付」を要求して回り、断った安田を殺害した」。
他にも「生きづらさが事件の要因」で「鬱屈を抱えた人物が理不尽な暴力に及ぶ事件」として、2008年の秋葉原無差別殺傷事件、2016年の相模原市の障害施設での殺傷事件、2019年の京都アニメーション放火殺人事件を挙げています。
「生きづらさの問題が絡んで、連続的なものとして暴力が発動されてきた末に、権力者が明確なターゲットとされたのが今回の事件でした。」
◎山上容疑者についての記述以降、全文、書き移してみます:
「生きづらさ」の原因求め 誰かを敵視
「自己責任」かざした自分が弱者に
(前略)
―――山上容疑者は「世界平和統一家庭連合(旧統一協会)に「恨み」があったとして、友好団体の集会にメッセージを寄せた安倍元首相を銃撃しました。旧統一教会の問題は、追及しなければなりません。その点を強調したうえで指摘したいのは、山上容疑者が犯行に及んだ要因は、旧統一教会がすべてなのかということです。
山上容疑者のものとみられるツィッターの投稿を読むと、立場の弱い人に厳しい言葉を浴びせたツィートが少なからずあります。
例えば震災被害者は支援を受けられて恵まれていると言ったり、高齢者の年金受給に難癖をつけたり。彼は大学進学が叶わなくても資格を取得するなど、人生を建て直す努力をしたようです。しかし、それでもうまくいかなかった時、自己責任論を振りかざして弱者をバッシングしてきたがゆえに、自分も助けを求められない悪循環に陥ったのではないでしょうか。
弱さ包み込む社会を
―――生きづらさを抱えている人たちのために必要な政策は何ですか。
一つは「リスクを社会化」していくこと。セーフティーネットを強化して、所得の再配分機能を高めることも必要です。もう一つは「社会的包摂」。孤立している人を社会の中に包み込んでゆくことです。
ただ、政策論だけではやはり限界があります。人間観を根本的に見直さないといけないのではないかと思っています。山上容疑者を含め、今の僕たちは、自己責任という呪いのような人間観にとらわれていると考えるからです。
―――どうしたらいいのでしょう。
山上容疑者のものとみられるツィートには、こうあります。「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」。彼にも愛されたい気持ちがきっとあった。でも、弱さはマイナスの価値であると思い込み、助けを求められなかったのでしょう。
まず弱さを認めること。誰かを頼ってもいいし、泣きついてもいい。自分の弱さを受け入れるところから、人と人との連帯の可能性が生まれてくると思います。
―――ネット上には、山上容疑者の境遇に同情する声も少なくありません。なかには、社会に問題を訴えたと評価するような意見すら見かけます。
安田善次郎事件に戻って考えて見ましょう。事件後、安田財閥の莫大な遺産相続に世間の関心が集まりました。すると実行犯の朝日平吾について、「不正を世の中に訴えようとした」とたたえる声が上がり始めました。やむにやまれぬ思いからの犯行であったとして同情論も広がり、やがて彼を英雄視する風潮も生まれました。
そうした風潮は、結果的に模倣犯を生んでしまいました。およそ1か月後、18歳の駅員が自分も認められようと、当時の首相を刺殺しました。原敬暗殺事件(1921年)です。
―――暴力の連鎖が起きてしまったと。
もし再び要人への暴力が連鎖してしまったら、治安維持のための権力が増大して、人々の自由と権利が制限されることに繋がりかねません。戦前期の教訓は、暴力の連鎖を決して許してはいけないということ。いま僕たちは重大な岐路に立っています。(聞き手・上原佳久)