瀧安寺 採灯大護摩供(11月7日)

◎今日はヨーガの日。また新しい方が見学に来られていました。やりたいと思った時がチャンス。今年6月に101歳と8か月で亡くなった母は60歳で始めて90歳すぎても続けていました。帰りに寄ったお店で滅多に会わない二筋北側の知り合いに会ったら、またお一人、滅多に会わない方に会って、共通の知り合いだったので、3人で「元気~?」でした。

さて、昨日7日は瀧安寺の大護摩供に行ってました。最初の写真は普段の日の瀧安寺境内。護摩壇の鳥居前には「修験根本道場」の碑がある。瀧安寺の本堂は崖の上。

11月7日は関西一円の山伏(修験者)が箕面瀧安寺に集まる日。先日、初めて瀧安寺の赤い橋を渡って川向こうに聳え立つ朱塗りの鳳凰閣と客殿を見たせいか、今年は見学です。11時目指して自転車を走らせ、「一の橋」の駐輪場に置いて、急ぎ足で。

今年は色々あったので、300円払って護摩木に「家内安全」の願い事を書きました。

採灯護摩(杉の木を井桁に組んだもの)は青々とした檜の葉で覆われています。 

赤白青緑紫黄色の紙垂(しで)が下がっている紐で神域が示されています。

赤い橋を渡った建物で集結していた山伏たちが、まず階段の上の本堂へ向かいます。

護摩焚きが行われる井桁は檜の葉で覆われて、太い竹の棒が二本立てかけてある。

腰掛け石の上には毛皮の敷物が掛けてあり、竹の棒で入り口は閉じられている。

お天気は良いのですが、日陰でじっと立って待っていると体が冷えて来るので途中で鳥居のある日向まで出ました。暫くすると紫の衣を着た住職さんが階段を降りてこられたので、そろそろかなと石垣の下へ移動。この石垣も650年から?!

ほら貝が聞こえて、修験者の入場です。

最高位の修験者の入場です。毛皮の石に座ります。

ほら貝が聞こえてきます。荘厳な音色ですが、時として息が抜けて・・・

矢を背負った人が東西南北と正面に向かって空高く矢を放ちます。

矢は杉の大木の木立の間をシュルシュルと真っ直ぐに上がっていきます。

歌舞伎調の山伏問答から始まって、弓矢の儀式の次は宝剣の儀式です。

最後に斧の儀。

大きな二本の竹筒の先端に火がつけられます。

正面で火のついた竹を交差して・・・

修験者の最高位の方が「開式の辞」かな・・・

いよいよ火がつけられます。

最初は威勢よく煙が…その前に何回か柄杓で水を掛けていました。

山伏さんたちが一斉にお経(?) を唱え始めます。唱和する声がコダマします。

先がYの字になった棒で・・・

護摩木が投入されます。

護摩木投入!

火の勢いが強くなり、水を掛けて鎮める。

赤い炎が勢いを増す。

太鼓と読経の声が響き渡ります・・・

檜の葉の一角がくずれ始めます。

さらに護摩木投入。

炎が上がる。

沈火させる。

檜の葉も残り少なくなり、そろそろ始末かな・・・

最後の護摩木。

投入です!

火掻き棒の竹も先端が焼けて短くなっています。

崖の下から移動して反対側へ・・・

火の回りにいる小柄な山伏のお一人の顔に見覚えがありました・・・

その方が、終わった後、私を見て「Oです」と名乗ってくださいました。

「大役でしたね」と私。そうか、我が家の西隣の畑のオーナーのOさんだったか・・・

いよいよ、最高位の方の退場のようです。

11時から始まって、そろそろ1時間半。

いよいよ瀧安寺住職の退場。

終わった後、みんな護摩壇に近寄って焼け残りの檜の葉を戴く人も・・・

結界を示す紐に色とりどりの紙垂が下げてありましたが、それを戴く人も・・・

「最後まで観たのは初めて」と隣の人に言ったら「私は毎年」と言って、折りたたんだビニール袋をもらいました。焼け残りの檜の葉を入れて持ち帰るのだそうです。

帰りの観音堂。山伏の方たちがお参りされていました。

時計を見たら12時半。出かけていた夫は知らないはず、急いで帰らないと。

箕面役行者の昇天の地と言われています。また「明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された」そうですが、「修験道」をWikipediaより:

修験道は、飛鳥時代役小角役行者)が創始したとされる]が、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている

修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる神仏混淆(神仏習合)の動きの中に求められる神仏混淆(神仏習合)は徐々に広まり、神社の境内に別当寺(神宮寺)が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。そして、それらの神仏混淆(神仏習合)の動きと、仏教の一派である密教天台宗真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった