見える(see) と 見る(look at)、そして 富くじ

「宗教について」で、「いつもお参りに行くお寺が実は鳥居のある神仏習合の身近な形」と書いてから気になっていました。半月ほどたった先日、ウォーキングがてらデジカメを持ってもう一度龍安寺に出かけました。前回の写真は西江寺(聖天さん)の鳥居でしたが、今回はその先にある龍安寺に。お正月と違って、今回は私以外に人影もなく、受付の窓口もあいていません。

see と look at の違いは中学英語で学びますが、at の大切さをこの度、改めて思い知りました。見る対象が分かっていないと見えてこないというか、見ていないのですね〜。

鳥居とお寺の本堂の写真を撮って建物に近づくと立札が。時代劇に出てくる屋根つきの将棋の駒みたいな木の立札です。その説明を読むと、「日本最初の弁財天で、1400年近い歴史を有する。役の行者によって箕面の滝の側に創建されたが、江戸時代初期に現在地に再建された」とあって、建物は「江戸初期、後水尾天皇の寄進、神道形式で奥殿と拝殿からなる」とあります。

いつもはお賽銭箱のある本堂しか見ないというか見えないのですが、この本堂そのものが神道形式の拝殿。建物の横に回り、高い塀越しによく見ると、本堂の真後ろに数段の階段を上る高床式の奥の殿がありました。今回「神仏習合」というキーワードが働いて普段見逃していたものが見えてきました。

ところで、この龍安寺は昔から富くじで有名です。お正月には沢山の善男、善女が大きな箱の前に行列を作って並びます。先の尖った長い棒で当たり札を刺すというものだと思っていましたが、「最近は手を突っ込むのよ〜」とは、今年お孫さんを連れてお参りにでかけた友人の証言?です。

13日の「讀賣」夕刊に箕面富くじが取り上げられましたので、そこから引用します。

富くじの仕組みは<元旦から7日までの間、参拝者が木札を買い求め、自分の名前を書いて、木箱に入れていく。僧が箱の中を錐で突いて3枚を選びだし、その名を読み上げ、厄除け、招福の「牛王(ごおう)宝印」というお守りを授ける>

始まりは箕面の領主から寺に出された「富」の公平さを求める書状に天正3年(1575年)の日付があるので、安土桃山時代にはすでに営まれていたらしい。堂で参拝者が差し出した竹ざおに紙を挟んで当選を決めた時代もあり、起源はさらに遡る可能性が高い>

箕面富くじは景品も賞金もないのになぜ流行したか修験道(しゅげんどう)開祖、役(えんの)行者が開いたとされる寺は最盛期の室町時代、80の僧坊を擁した。落差33メートルの箕面大滝も近く、諸国から訪れた修験者らが修行に励んだが、修験道の習わしで檀家はない。「大勢の食事やら、お堂の維持費やらを賄うため、富突が生まれた。授ける牛王宝印の数を絞って希少価値を高め、人を呼び込んだのでしょう」>

箕面から全国に広がったのは<お守りを賞金に替えた富突が現れ、賭博の色彩を帯びた江戸時代から。家財を失う人が続出、幕府は元禄5年(1692年)に禁令を発したが、歯止めは利かず。目黒不動湯島天神、谷中の感応寺(現天王寺)という「江戸の三富」を始め、最盛期には江戸市中だけで20〜30か所に及び、3日に一度は催された。くじの値段は通常は5〜6匁(今の2万円弱)と高いが、賞金は100〜300両。今なら2000万から6000万円前後に上り、射幸心をあおる。1枚を数人に分割販売する「割札」も横行。「一攫千金」で身分社会の壁を突破しようとしたのか、ブームは過熱し、悲劇も再三。天保の改革(1842〜43年)で幕府はついに全面禁止を決める>

龍安寺富くじが禁止されなかったのは<寺は修験道の根本道場、山岳信仰にそぐわないからか、一貫して富くじに賞金を設けず、天保の禁止後も、その適用を免ぜられた。修験道廃止令が出された明治の一時期を除き、形を変えながらも営々と続いた>

禁止令以後の寺の外では<「勝札」という名で復活したのは、大戦末期の1945年7月。政府が戦費調達のため2億分を発売したが、抽選前に終戦を迎えた。翌6年、戦災復興に向けて都道府県に「宝くじ」が認められ、高度成長に乗って定着。やがて賞金が1億円を超えて遊興色がまた強まった>

お寺では今<木札を突き、お守りを授ける富突の再現計画が進んでいる。地元の山伏らでつくる支援組織「麓巳講」講長の花畑舜一さん(66)が言う。「金や物という富ではなく、心の安寧を授けてきた寺ですから。」 くじの収益は弁天堂の修復に充てる。招福の神を古と変わることなく守り継ぐのだという>


どれも省けなくて引用が長くなってしまいました。
明治政府は廃仏毀釈神仏混淆を禁じたとき、山伏の修験道も禁止したのですね。
富くじが戦費調達に利用され、戦後は復興のため宝くじに姿を変えたというのは初めて知りました。
今も長いキリでお札を突く富くじだと思っていたのが、やはり、友人の言っていた通り変わっていました。
毎年すぐそばを通っていたのですが、見えていなかったようです。     (龍安寺の龍の漢字は正しくは「さんずい偏」がついています)