NHK[プロジェクトJAPAN]プロローグ「戦争と平和の150年」

戦争と平和の150年」、その第1部「法による支配をめざして」。
盛り沢山で複雑な内容の1時間15分ほどですが、一言でいえば日本の憲法九条がどのような平和希求の背景と流れの中で生まれたかが描かれています。この流れを知る上で、ある先駆的な日本人の存在がありました。そして敗戦後の日本の運命。どれも省くことができない話の筋道なので、長くなりますが私自身の頭の整理のためにも書いてみます。私なりのまとめ方ですが、番組を見逃した方もぜひ読んでみてください。

その前に、4月10日、天皇皇后両陛下ご結婚50年のNHKスペシャル「象徴天皇・素顔の記録」を珍しく夫と二人で見ました。
私たちは今年3月30日が結婚40年になりますので、年齢的にもちょうど10歳上の世代。15歳の時、ご成婚の儀をテレビで見たのを覚えています。民間から皇室に入られる際に「天皇制は将来どうなりますか」とお訊ねになったというのも覚えています。
戦後の新しい憲法のもと、象徴天皇の在り方を体現して生きておられる平成天皇は、敗戦後の再スタートの時点で天皇制と不戦の九条が抱き合わせであったという憲法の成り立ちも含めて、今もっとも忠実に誠実に憲法の精神を生きておられるような感動を覚えました。
写真は昨日の桜・散り始めたこの時期の色合いが又とっても素敵です

さて、三つの視点(二つの新聞と一冊の教科書)が紹介されます。
一つは1911年のフランスの新聞「プチ・ジュルナル」。平和の女神がアフリカ人に金貨の壷を掲げて降り注いでいる絵。絵の下には「フランスは文明 富 平和をもたらす」と書かれています。「フランスがアフリカを武力鎮圧するのは平和のため」、アフリカ支配は「野蛮を文明化するため」という帝国主義の旗印、植民地支配の錦の御旗、正当化の為の美辞麗句。それが、日本の場合はアジアでの「共存共栄」であり「大アジア」「大東亜共栄圏」だった。

アメリカ合衆国がカリフォルニアの金を目指して西進を続けついに太平洋岸に達したのは1849年、1850年には北米大陸制覇? その後は太平洋を越えて中国へという時期、日本にはその補給基地、避難港として開国を迫った。一方イギリス、フランス、ドイツはすでに東進してアジアを植民地にしていた。日本は岩倉具視使節団が英国の産業革命、フランスの共和制、ドイツの鉄血宰相ビスマルクを取材?旅行、共和制のフランスからは徴兵制を導入したが、政治的には強大な軍事力を持った帝国ドイツを見習った。近代国家の体裁を整えた日本の初めの第一歩を踏み出したのは世界が帝国主義、植民地支配、アジアへの勢力拡大競争という中だった。アジアの東端にいて日本は同じ道を遅れて大急ぎで歩みだし、即ダッシュしたに等しい。

二つ目はオランダの新聞。鎧兜に身を固めた侍の刀をもう一人の侍が素手で立ち向かっている絵が書いてある。この侍が安達峯一郎という実在の外交官でオランダ・ハーグの国際司法裁判所の裁判官だという。新聞は1931年、満州事変の2ヶ月後のもの。「日本の平和の精神が軍国主義者たちに勝利することを祈る」と書かれていたという。

1899年には国際的な平和会議である第1回ハーグ平和会議が開かれ、日清戦争後の日本は「ヨーロッパの動きを観察するため」参加。議題はロシアが「軍備の5年間凍結」を提案。当時ロシアは不凍港めざして南下政策をとり、ヨーロッパからは「ロシアの脅威」と恐れられていた。ロシアはシベリア鉄道の建設に莫大な経費がかかり、軍事費の削減を余儀なくされていたので、「自国のための平和」を必要とした。しかし、ドイツの反対で凍結は見送り。

日本は、外国人居留地家屋税の支払いを国際調停機関に訴えても聞いてもらえず、欧米列強とは法ではなく力で対抗するしかないと思い知らされていた。1904〜1905年の日露戦争では国家予算を超えた戦費を投じてかろうじて戦勝国となったが、1907年の第2回平和会議では日露戦争で日本が宣戦布告せずとして非難された。また、1904年第2次日韓協定で韓国が日本の保護国となり、これを無効として韓国皇帝が3人の代表を送ったが、「インドが英国に独立を求めるが如き」として「一国の独立より平和が大事」と退けられた。1910年には日韓併合、韓国の植民地化が完成した。しかし、この第2回平和会議には日本の女性の署名6407人分の平和アピールが届けられていた。大量殺りく兵器の出現に毒ガスや体内破裂弾の禁止という戦争が起きた時のルール作りはできたものの、戦争を起こさないルール作りには至らなかった。

1914〜1918年、第一次世界大戦では新型兵器が使用され、戦車、戦闘機が加わり、大量、大規模の損失、損害がもたらされた。1915年に予定されていた第3回ハーグ平和会議は中止となった。1919年の英、仏、伊、日本の戦勝国が戦後処理会議として開いたパリ講和会議では国際連盟が誕生。法による平和を求めて常設国際司法裁判所が誕生。1922年、その準備委員会にベルリンにいた日本の外交官で国際司法学者でもあった安達峯一郎がいた。
オランダの新聞の絵の素手で鎧兜の刀に立ち向かう侍がこの人。

安達は第一次世界大戦での惨状を目の当たりにして「戦争は世の中の発展、人類の発達に必要ないことと確信」し、大国が小国を力で支配する時代を終わらせようと努力、裁判官の比率を大国5に対し小国8にしたり、「応訴義務」の導入を図った。小国が提訴した場合、告訴された国にも出廷を義務づけ、無視されることがないようにした。しかし、日本政府は拒否、決議されず、それぞれの国の判断に委ねられた結果、ヨーロッパの国は次々受け入れる中、日本は拒み続けた。

1931年、安達は52ヶ国中49カ国の賛成でアジア人で初めて所長に選ばれている。その9か月後、日本は満州事変を起こし1932年、傀儡国家、満州国成立。国連の満州調査団はこれを認めず、日本は1933年、国連脱退。日本がロシアに代わって世界の脅威となる。「日本の軍国主義をとめられるのは国際司法の場にいる安達しかいない」というのが新聞の絵になった。しかし、1934年、法による平和構築の実現をみることなく安達峯一郎は死去。在職中の死去のためオランダ国葬となる。日本は1936年、2・26事件以降、軍国日本の破滅の道を突き進んでいく。

「応訴義務」に関しては1973年、フランスのムルロア環礁での核実験にニュージーランドが反対して訴えるもフランスは応じず、応訴義務を撤回。同じく1984年、中米の共産化を恐れたアメリカがグレナダに侵攻、二カラグァが提訴するも、レーガン大統領が応じず、アメリカも応訴義務撤回。現在国連参加国の3分の1のみとなって応訴義務は国益の厚い壁に阻まれている

三つ目は1947年に出された日本の文部省が作った教科書「あたらしい憲法のはなし」。
第二次世界大戦後に作られた新しい日本国憲法には人類史上初めて憲法戦争放棄、戦力の保持を禁ずる事が謳われている。人類の理想、戦争の非合法化がここに実現。啓蒙主義以前からの平和思想、日本人女性6000人以上の平和アピール、自由民権運動大正デモクラシーの平和思想が源流となって、実現したもの。しかし、歴史は冷戦による逆コースをたどり始め、5年で消える。

第1回平和会議から100年目にあたる1999年、ハーグ平和市民会議が開かれた。第一次大戦勃発のため中止された第3回平和会議と位置づけられ、世界中から700団体8000人以上の市民が参加、国連事務総長マンデラノーベル平和賞受賞者など世界の名だたる人たちも集い平和構築の議論がなされた。そこで会議の成果をまとめた「公正な世界秩序のための基本10原則」が提言された。安達が悲願とした「応訴義務」の問題が出され、すべての国家が国際司法裁判を受ける義務に応じるように促された。また第1項には「日本国憲法の九条のように政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである」とあり、ハーグの市民は日本の憲法第9条を世界の国家の目標として掲げた。

憲法九条の思想水脈」の著者で京都大学教授の山室信一氏によると、憲法九条には国際法上、2つの流れが合流しているという。
1つは、1928年のパリ不戦条約。この条約では戦争そのものが違法とされ、その流れが九条の「戦争放棄」につながっている。しかし、この条約には弱点があり、日本は「戦争」を「事変」と言い換えて潜り抜ける。特に日中戦争の時、日本はアメリカにエネルギーを依存していたので、日本が戦争状態に入れば、中立条約を結んでいるアメリカは日本への輸出はできなくなる。これを避けるため日支事変とした。
そのこともあって、日本がポツダム宣言を受け入れる2か月前の1945年6月26日、国連憲章で「武力の威嚇または行使」という言葉を使って「あらゆる軍事力に制限」を加えた。これが2つ目の流れで九条に引用されている。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」

こうやってパリ不戦条約と国連憲章から憲法九条へと二つの流れが九条に合流した。1947年の教科書「あたらしい憲法のはなし」では「陸軍も海軍も空軍ももたなくなった、しかし、心細くはありません。正しいことを先に行ったのです。世の中で正しいことほど強いものはないのです」と書かれたが、3年後には副読本に、その2年後には廃刊となり、この教科書の運命は日本の敗戦による平和主義とその後の冷戦を象徴するものとなった。

1950年にはアメリカとソ連の冷戦は朝鮮で火を噴き、毛沢東の中国もやがて参戦、日本ではGHQの指令のもと1950年には旧軍隊関係者を中心に警察予備隊が作られ、「あたらしい憲法のはなし」廃刊後の1952年には名称を保安隊に変えて事実上の再軍備、1954年には自衛隊が発足する。

しかし、日本の再軍備朝鮮戦争の2年前からアメリカの陸軍省で計画されていた。<日本の憲法を改定し新憲法を裁定し、アメリカの経済的負担を軽減して、アメリカの砦とするために再軍備するという方針>に対して、意見を求められたマッカーサーは「日本の再軍備は東アジア諸国にふたたび日本をおそれさせることになる。アメリカ防衛のためには沖縄に強力で効果的な空軍力を駐留させれば十分で、憲法改定までして再軍備することはない」と答えている。沖縄が極東防衛の要の位置づけを得たわけです。民主党小沢一郎党首が最近言ったことと不思議に重なるではありませんか。

1951年、世界52カ国を集めた対日講和会議が開かれ講和条約が結ばれ、同時に同日、日米安全保障条約にも吉田茂が調印。平和主義の憲法を持ちつつ、力による安保体制のアメリカの軍事拠点ともなるという大きな矛盾を抱えつつ今日に至る日本の運命が定まった。

この番組が取材しているマサチューセッツ工科大教授ジョン・ダワ―氏は、若い頃に体験したベトナム戦争をきっかけに戦争の原因を歴史に探り続けている人とか、その人によると「いまだかつてワシントンがどういうかを考えないで世界における日本の役割、独立したヴィジョンを日本のために示した日本の指導者は一人もいない」とのこと。それは、言われなくても、日本人の私(たち)が一番情けなく思っていることです。

しかし、オランダのハーグに安達峯一郎という日本人が居たということ、国際的な司法の場で活躍し、その悲願の「法による平和」の考えが日本の憲法九条に流れ着いていることを初めてこの番組を見て知りました。

この番組はイラクの青年が沖縄を訪ねるシーンで終わります。青年は、沖縄はイラクではアメリカの軍事基地として知られ、一般の人たちが住んでいるとは思っていなかったと言います。沖縄が、かつては戦場となり、島には大勢の犠牲者が眠り、その国には戦争をしないという憲法があるということを知ります。「支援も?」と訊ねる青年に私たちは何と答えるべきか?

たった5年で消えた教科書「あたらしい憲法のはなし」をもう一度日本自身のものとするのか、あるいは朝鮮戦争の2年前のアメリカの思い通り、憲法を改定して戦争のできる国になるのか、それとも全く別の次元で新しい道を考えることが出来るのか。決めるのは私たち自身です。