ETV特集「義男(ギダン)さんと憲法誕生」(平和主義)

◎今年の憲法記念日の前日に放送された番組の書き起こしです。日本国憲法の「第一章 戦争放棄」の前文「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言がどうやって生まれたのか、議論された内容を記した当時の速記録をもとに再現されたドラマで辿ります。(番組の動画はこちらで:

ETV特集「義男さんと憲法誕生」書き起こし前に… - 四丁目でCan蛙~日々是好日~)

「押しつけ憲法」とか「与えれた憲法」と簡単に言って済まされない真剣な議論には、日本の民主主義思想や2つの世界大戦を経てたどり着いた世界平和への大きな動きと考え方が鈴木義男という人物や議論し合った議員の方たちを通して流れ着いていると思いました。

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ETV特集「義男さんと憲法誕生」

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昭和21年、敗戦の翌年、皇居前に25万人が集まった。

義男(ギダン):国民が未曽有の窮乏にあえいでおります。食糧危機と「インフレ」危機を傍らにして一日も早く善き憲法を持つことは日本国家の救ひであります。

N(ナレーション):衆院議員・鈴木義男、戦後初の選挙で福島県から選出、福島の人々がギダンさんと愛称で呼んでいました。ギダンさんが国会でが論義しようとしていたのは憲法の改正案でした。

この年の2月、マッカーサーを中心とするGHQになって憲法の草案が作られた。その後、日本政府との折衝の末まとめられた草案が衆議院で審議されることになった。

7月、衆議院帝国憲法改正案委員小委員会で、GHQ草案にはなかった条文が追加修正されていく。9条の平和主義や25条の生存権です。ギダンさんはその提案者でした

ギダン:「軍備を皆棄てるとい云ふことは、一寸泣き言のやうな消極的な印象を与へるから、先づ平和を愛好するのだと云ふことを宣言して置いて、其の次ぎに此の条文をいれようぢゃないか。生存権は最も重要な人権です。」

N :生存権によって最低限度の生活を営む権利が認められた。最近の研究がさらに重要な追加がギダンらの提案で行われたことが明らかになってきた。

小委員会の速記録 

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東北学院大学名誉教授・仁昌寺正一:「憲法の中身を決めたという小委員会の議事録を見ると司会の芦田均の次に発言回数が多い。それぐらいありとあらゆるところにはわたって意見を言った。

12条の国家賠償請求権も、40条の刑事補償請求権も鈴木議員の尽力で作られた。冤罪事件で無罪が確定した人の国家補償はこの憲法の条文で規定されたのです。

ギダン:「日本国民はお上のやったことに対して訴えを起こすなどと云ふことはできることではない、そういうことは不届き千万であるといふ観念がありまして、そういう訴えを起こすことは出来るのだと云ふことを国民に理解させ置くことは国民の権利保障の上に非常に重要なことであります。」

ギダンさんは何ゆえ憲法の追加修正に力をいれたのか? 日本国憲法の施行から73年、新たな資料で憲法誕生の知られざる舞台裏に迫ります。

福島県の白河は、戊辰戦争で激戦地となった。ギダンは1894年(明治27年)、この地に生まれた。仙台の東北学院で学んだ後、東京大学法学部に入学、大正デモクラシーの時代、民本主義を唱えた吉野作造に大きな影響を受ける。その後、東北大学教授から弁護士に転身、数々の有名な事件を担当した。

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総選挙ー民主化を決する日ー

1946年(昭和21年)4月、新しい日本の運命を決する日、4月10日.

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N : 昭和21年(1946年)4月、戦後最初の選挙が行われた。ジダンさんは日本社会党の候補として地元福島から立候補

選挙運動を手伝った石井彌吉さん(92歳):(戦後、選挙権を得た女性にギダンさんは語りかけていたという) 「憲法の話だけどね、学のない祖母ちゃんが『うまいこと、なるほどな』と『ぼた餅でほっぺたをたたかれたような説明だった』と、憲法の話がね。しかも、その中に国際警察軍の話もある。世界の平和をしなくちゃならない、70年前にね。各国が兵隊を持ったら戦争になるから各国は兵隊を持たない、それが本当の平和だ

 第一章 九条 平和主義

国会議員となったギダンさんが力を入れたのが憲法九条の平和主義です。

1946年7月、各政党から法律の専門家14人が集まり審議が始まった。

1946(S21)年 7~8月

  帝国憲法改正案委員 小委員会

GHQ草案をもとにした憲法改正案の追加修正を行った。改正案の9条には戦争の放棄や軍備の不保持、交戦権の否認はありました。しかし、平和の文言はなかったのです。

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公開された速記録からギダンさんが9条の冒頭に「平和を愛好する」という文言を追加するよう求めたことが明らかになった。

7月27日<速記録による再現>

(再現ドラマでは鈴木義男を鶴見辰吾芦田均を斎藤洋介が演じています)

ギダン「皆さんのご意見を伺ひます。唯戦争をしない、軍備を皆棄てると云ふことは、一寸泣言のやうな消極的な印象を与へるから、まず平和を愛好するのだと云ふことを宣言しておいて其の次に此の条文を入れようぢゃないか」

他の議員から賛同の声が上がる。

日本進歩党犬養健:「なんだか仕方がない、止めようかと云ふやうな所があります。何か積極的な摂理として戦争はいかぬと云ふやうな字が入れば尚ほ宜しいかと思ひます」(蛙の独語・消極的な押しつけではなく積極性を言葉に・・・)

ギダン「大いにそれは賛成するだろうと思ひますがね」

委員長「無論可能でせう」犬養「それは宜いね。どうもめそめそして居るやうに思ふ」

日本自由党芦田均委員長:「社会党の案に何か平和愛好の意味の箇条があったのではないですか?」

ギダン「日本国は平和を愛好し国際信義を重んずることを国是とし、教育の根本精神をここに置く」と云ふやうなことを現はせば法律になる」

N : ギダンさんは何故平和にこだわったのか?

ギダンさんに影響を与えたのは二度にわたる世界大戦の教訓です

第1次世界大戦(1914-1918)後の1921年(大正10年)、文部省から研究員としてドイツ、フランスに派遣された。当時は第一次世界大戦が終わったばかり、死者が1千万近くに上った総力戦。ギダンさんは戦場の跡を訪ね歩き被害を目の当たりにします。 

1923年の「思想」9月の『独逸より』鈴木義男

この破壊の余りに大なるを痛感いたし候

人類は一大愚挙を敢てしたる次第

小生はこの混乱裏において幾多の注目すべき

新価値の萌芽を見出すものに有之(これあり)

1919年パリ講和会議

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 戦争の反省から国際連盟が設立され戦争放棄をうたった不戦条約が結ばれる

ギダンさんは国際協調戦争の違法化という新しい考え方を知った

帰国したギダンさんは、東北大学の教授となる。雄弁で機知にとんだ講義、教室は学生たちであふれたという。

しかし、時代は軍国主義へと向かう。教育でも現役将校を配属して軍事教練の強化が進んだ。この動きをギダンさんは「殺人術を教える」と新聞で訴えます。「人類文化の理想が平和である。軍事教育で全国の学校に大規模に行ふことに依って次代の国民の精神に及ぼす大なる悪影響は少青年の心に知らず知らず戦争的事態を植え付け激発して戦争を好ましむるに至る事である

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当局に目をつけられたギダンさんは「赤い部類に入る」(河北新報)教授であるとされ罷免の噂があると報道された。

東北大学の方針決定の場である教授会でギダンさんへの処遇が話し合われている。

評議会議事録」:「鈴木教授を再び教壇に立たせざること。辞表は時期を見て当局に提出のこと。当分病気静養を進むることを協議せり

東京大学准教授・加藤諭さん:「すぐにやめると責任論になるんだと思う。大学が辞めさせたんじゃないかと。なので時期を見て少し落ち着いたころに直接事件と関係ないような形で辞表を出してもらうことが一番良いという結論に至ったと思います。」

1930年、ギダンさんは東北大学を辞職

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1931年、満州事変が勃発。日本は旧満州の東北部に進出。

1933年、国際連盟の勧告に反した日本は連盟を脱退、国際的な孤立の道を歩み始める。

再び起こった世界大戦。日本人だけで310万が犠牲となった

なぜ二度の世界大戦を防げなかったのか?その反省から1945年に国際連合が設立される。国際社会が協力して平和を維持しようとする動きをギダンさんは見つめています。

ギダンさんの孫で国際政治学者の油井大二郎。晩年を共に過ごした油井さんは祖父が憲法に込めた思いを問い直している。

一橋・東京大学名誉教授・油井大二郎さん:「第一次世界大戦の悲劇を二度と繰り返さなための努力がヨーロッパではもう始まっていることを実感したと思う。それが国際連盟であり不戦条約であった。しかし結局それが挫折してしまう。

で、今度は日本自身が大変な悲劇に直面したわけですから、今度は日本自身の問題として戦争を二度と繰り返さない制度を作らないといけない、そういう悲痛な願いの中で9条が登場してくる。

第二次世界大戦の反省から国際連合ができる。新しい平和維持の国際構想の中に9条を積極的に位置づけていく、というそういう発想が祖父にはあったのではないかと思いますね。」

N :国際連合では侵略国には軍事的制裁を行う集団的安全保障の仕組みが示された。

1946年(昭和21年)6月、帝国議会衆議院本会議

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ギダン「今日は世界各国団結の力に依って安全保障の途を得る外ないことは世界の常識であります。加盟国が軍事基地提供の義務があります代わりに一たび不当に其の安全が脅かされます場合には他の六十数箇国の全部の加盟国が一致して之を防ぐ義務があるのである。我々は消極的孤立・中立政策を考ふべきでなくして、飽くまでも積極的平和機構への参加政策を執るべきであると信ずるのであります。」

7月27日、ギダンさんの提議を受けて各党の議員が争うように条文を提案した。

日本自由党 廿日出厖(はつかでひろし:「『日本国は平和を愛好し国際信義を重んずることを国是とし、国権の発動たる戦争』と云って後は続けても差し支えないと思ふのです。」

芦田委員長:「私の個人の意見としては、ただ平和が好きだと云うのみならず、自動的に平和維持のために努力する・・・

 廿日出:「それでは斯うしたらどうでせう、『日本国は恒久平和の建設に志す』」

日本社会党・森戸辰夫:「日本国は恒久平和の愛好者として国権の発動たる戦争云々と云ふやうにしても宜いと思ひます。」

7月29日、こうした議論を受けて芦田委員長は新たな条文を提案します。

外交官出身の芦田均、戦前軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていた。

日本自由党芦田均:(芦田案に基づき、9条の冒頭に次の条文が付け加えられた)

「第一章ー戦争放棄

     日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し

N:『平和と国際協調』が明確になったのです

憲政史家 和光学園理事長・古関彰一さん:「平和という言葉を入れるべきだ。日本国民の意思だということを入れたいみんなが少しずつ譲歩しながら言葉を選んで最後は『国際平和を誠実に希求し』という言葉がやっとできた。

みんなの合意を作ったという点で鈴木さんは大変な人格だと思いますみんながもう二度と戦争はこりごりだという気持ちが政党の区別なしに、しょうがないから戦争の放棄をするのではなく積極的な意味を入れたいという、そこではみんな一致した。」

 N : 憲法9条の平和主義と並んで小委員会で新たな重要な条文が追加されます。

二十五条の生存権です。それは社会党の提案によるものでした。(つづく)