憲法九条二項問題とは(矢部宏冶著「日本はなぜ・・・」最終章2-1)

<今朝は、小出裕章氏の記事に次いで二つ目です>

◎いよいよ最後、ここまで理詰めの内容を納得しながら読み進んできて、最後のところがなかなか難しくてついつい手が出ない。難しいのは、著者の矢部宏治氏の結論が難しいのではなくて、自分の今迄の考えを変えることが難しい。私のことはさて置き、矢部宏治氏の本の内容に沿って、まとめてみます。


今年は戦後70年ですが、日本の戦後が始まった場所、ポツダムがどこにあるのか、初めて知りました。隣りの母が届けてくれた2、3週間ほど前の讀賣新聞の夕刊に戦後70年特集で紹介されていました。ドイツはベルリンの近郊ポツダムのお城の一室にチャーチル英首相、トルーマン米大統領スターリンソ連首相の三人が集まりました。日本の戦後がここから、ソ連が準備したこのツェツィーリエンホフ宮殿のホールで、始まりました。米英ソ3カ国の代表団4300人を迎える場として宮殿は最適だったとか。「宮殿での会談は7月17日から8月2日まで。途中でチャーチル首相は総選挙で敗れ、終盤はアトリー新首相が出席。米国でも4月にルーズベルト大統領が急死、副大統領のトルーマンが後任に就いたばかりだった。」

☆矢部氏のこの本で、「ポツダム宣言(1945年7月26日)が『戦後日本の原点』なら、こちらは『戦後世界の原点』です」と書いているのが大西洋憲章です。(因みに、ポツダム宣言の現代語訳が「戦後史の正体」の巻末に掲載されているそうです) 
大西洋憲章の条文が195頁にありますので、日本国憲法や九条の誕生に直結する理念というので、黒太字部分を写しておきます。

大西洋憲章(Atlantic Chater)     (正式名称は「イギリス・アメリカ共同宣言」The Anglo-American Joint Declaration)
[場所]  大西洋上 イギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ
[年月日] 1941年8月14日 調印 


 アメリカ合衆国大統領[フランクリン・ルーズベルト]とイギリス王国首相ウィンストン・チャーチルは、大西洋上において会談をおこなった。(略)
 ふたりは次のような共同声明に合意した。(略)


一、両国は、領土その他の拡大を求めない
二、両国は、当事国の国民が自由に表明した希望と一致しない領土の変更は望まない。
三、両国は全ての民族が、自国の政治体制を選択する権利を尊重する。両国は、かつて強制的に奪われた主権と自治が、人々に返還されることを望む。


六、両国は、ナチスによる暴虐な独裁体制が最終的に破壊されたのち、全ての国民がそれぞれの国境内で安全に居住できるような、またすべての国の民族が恐怖と欠乏から解放されて曽野声明を全うできるような平和が確立されることを望む。


八、両国は、世界のすべての国民が、現実的または精神的な理由から、武力の使用を放棄するようにならなければならないことを信じるもしも陸、海、空の軍事力が、自国の国外へ侵略的脅威をあたえるか、またはあたえる可能性のある国によって使われ続けるなら、未来の平和は維持されない。そのため両国は、いっそう広く永久的な一般的安全保障制度[permanent system of general security=のちの国連]が確立されるまでは、そのような国の武装解除は不可欠であると信じる。両国はまた、平和を愛する諸国民のために、軍備の過重な負担を軽減するすべての実行可能な措置を助け、援助する。


                       フランクリン・ルーズベルト
                       ウィンストン・チャーチル


調印された日付に注目! 「日本の真珠湾攻撃の4か月前、アメリカはまだ参戦もしていない時期に、米英が戦後世界、しかも先勝後の世界について取り決めています。そして、4年後、計画通り勝利。」

日本国憲法の二つの欠点
GHQが書いたものであり、自分で書いていない。(自由民権思想や五日市憲法の理念が汲み入れられているということではなくて、実際英文で書かれていて書いたアメリカ人がいるということ)
憲法を命がけで守るという社会勢力(当初の制定勢力)がいないので、理想は絵に描いた餅。
憲法九条二項問題。(注意点:「戦争放棄」の一項と、「戦力および交戦権の放棄」の二項を分けて考えること)

日本国憲法 第九条
(一項) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(二項) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない

★第一項は、1928年のパリ不戦条約の流れを引く、国連憲章の理念そのものの条文であり、日本だけでなくイタリアやフィリピンなど、多くの国にも存在する。特に問題なし。
★第二項については、大西洋憲章ダンバートンオークス提案の段階までその理念として存在したが、国連憲章そのものの理念とはなりえなかった歴史的事実がある。その最大の理由は、冷戦により「集団的自衛権」という全く新しい概念が最終段階で国連憲章(第51条)に加えられたことにある。
マッカーサーやケーディスが九条二項を書いた時点(1946年2月)は、五大国による国連軍創設のための会議があり、各国の参謀総長がロンドンに集まり、各国が兵力を提供しそれを安保理が一元的に利用するという国連軍について、具体的議論が開始されようとしていた。ところが、1948年この軍事参謀委員会会合は打ち切られ、マッカーサーもこの年の大統領選で敗退。

★ここに、国連軍構想は消滅国連憲章第51条(集団的自衛権)が猛威を振るい始め、「個別国家の戦争=違法」という国連憲章の理念は見果てぬ夢に。その結果、取り残された九条二項はユートピアとなり、日本は米軍による「日本全土永久基地化」、民主主義国家アメリカは「基地帝国化」。
世界史上の大反転により、日本国内には「全ての戦力と交戦権を放棄した憲法第九条二項」と「人類史上最大の攻撃力を持つ米軍の駐留」という絶対的矛盾が生まれ、砂川裁判で爆発した結果、法治国家崩壊という現状を招いた。
加えて、九条二項の負の起源には、「敗戦国の武装解除」という側面がある
先に引用した「大西洋憲章」の第八項にある「そのような国の武装解除は不可欠」の文言。連合国にとっての「そのような国」とは、イタリアが降伏した1943年9月以降、主にドイツと日本を指している。

◆日本の戦後を決めた三点セット

1)1945年のサンフランシスコ会議(正式名称は「国際機構に関する連合国会議」アメリカ、イギリス、ソ連中華民国の四大国によって召集され、4月25日〜6月26日まで)で、国連憲章の「敵国条項」を書いたアメリカの上院議員ヴァンデンバーグ。

2)その「アドバイザー」(アメリカ代表団首席顧問)を務めていたのは、ジョン・フォスター・ダレス、あの1951年にサンフランシスコ講和条約日米安保条約を作り、日本全土への無期限・無条件での米軍駐留を決定した。

3)そして、日本国憲法第九条第二項

◆「これらの3つ、在日米軍憲法九条二項、そして国連憲章の「敵国条項」の問題は密接にリンクしていて、どれか一つでも解決しようとすれば、必ず三つをセットで考え、同時に解決する必要がある

本当の意味での「戦後体制からの脱却」には、吉田茂の「統一指揮権密約」を破棄すべき


▼「統一指揮権密約」:日本国内で有事、つまり戦争状態になったとアメリカが判断した瞬間、自衛隊在日米軍の指揮下に入ることが密約で合意されている。(小関彰一・独協大学名誉教授がアメリカ公文書から発見)吉田茂首相が1952年7月と1954年2月、アメリカに口頭で約束。(「日米会談でよみがえる30年前の密約(上)」『朝日ジャーナル』1981年5月22日号)

★日米合同委員会(=「ウラの最高決定機関」)の起源・「統一指揮権密約」とは:(275頁)

 1951年2月、日米安保条約をめぐる最終交渉でダレスから、日本を再軍備させたうえで、その軍隊を米軍の指揮下に置くという条約案を見せられたとき、吉田首相はこんな取り決めが国民の眼に触れたら大変だ、どうしても削除してほしいと頼んだ

 その代わりに、今後そうした在日米軍に関するさまざまな問題を議論するため、合同委員会を設けたいという提案をしたのです。そのうえで翌1952年7月、口頭で統一指揮権を了承した。つまり、そういう最も重要な問題については条文に明記せず、非公開の合同委員会の中で、あたかも対等に協議しているようなふりをしながら、必ずアメリカの要求通り決めることにしたわけです。それが「安保村の幹部養成機関」である日米合同委員会の起源なのです。

▼<その結果、オモテの憲法をどう変えようと、その上位法である安保法体系、密約法体系との関係を修正しない限り、「戦時には自衛隊在日米軍の指揮下に入る」。「戦力」や「行動の自由」を持てば持つほど、米軍の世界戦略のもとで、より便利に、そして従属的に使われるというパラドックスに陥る。安倍政権の「解釈改憲による集団的自衛権の行使容認」の先にあるのは、「密約の現実化」に、ほかならない。>

◎では、どうすればいいのか…・・矢部氏は・・・・明日につづく。