オーストリアにあった大阪図屏風

丁度1週間前の土曜日のBShiの番組で見たのですが、大阪の町を描いた屏風絵がオーストリアで見つかったというお話。

ウイーンに次ぐ古都グラーツのハンス・エッゲンベルク城で「インドの間」の壁面装飾に中国風の風俗画と交互に大阪の町を描いた8枚のパネルがあって、これが、どうも日本の徳川時代の屏風で太閤秀吉の街・大坂を描いたものらしいので調べてほしいという依頼が関西大学にあったといいます。

放送で大学名を明らかにしていたのかは定かではないのですが、文化財に詳しい友人が直接関大で聞いた話だと、つい先日、この話題で話した時に教えてもらいました。その時は「調査依頼があった」という話だったので、今回の番組はその調査結果に基づいて作られたものと分かりました。

なぜ江戸時代の屏風(あちらでもBeobosと表記)がヨーロッパに渡ったのか、というお話と、わずか4年間だけの需要だったというのが興味深い。
世界初の会社「オランダ東インド会社」が1602年に設立され(1600年が関ヶ原)、バタビア(=ジャカルタ)を拠点にアジアに20以上の商館を持っていた。
日本では1609年に平戸に商館ができ、交易が始まり、「屏風」は「壁面を飾る装飾品」として紹介された。その頃の財産目録によると、1642年6月に初めての注文があった。「大小20〜24、上品、優美なもの、ゴキブリに注意」と書かれていたよう。90〜120双が到着したが、1646年には「屏風は送る必要なし」と書かれていて、屏風の取引はわずか4年で終わっている。紙製品だったため、虫食いとか、蒸れ、濡れ、等リスクが高く、商品価値がなかった(儲からなかった?)為だという。

で、この8枚のパネルは勿論、350年前の日本熱の証しの屏風絵で、ヨハン・ザイグリードが入手したもの。その孫のマリア・エレオノーラが城を作り変え、異国趣味に基づくロココ趣味にした時、磁器の間、中国風の絹の布飾りの間、そしてインドの間を作った。問題の屏風はこのインドの間の壁面に埋め込まれたわけですが、この屏風に描かれているのは500人の町衆と大阪城。米俵にネズミ対策用のネコが乗っていたり、船場の船着場の様子、両替商、酢やみそや、薬問屋の看板も見え、大道芸人も描かれている。当時人口20万人の日本一繁栄した都市大阪が描かれているのだ。大阪城内に入る絢爛豪華な造りの極楽門が「天主南面」の時代になぜ北側に設けられたか?というお話も面白かった。京都(=朝廷)からの客人を出迎えるには城の北は京の南に当たる、京橋も京都を意識したものとか。

オーストリアでこの屏風を発見(「日本の屏風に違いない!」と)した方(女性の研究者か学芸員?)は、城の主の秀吉と淀君も描かれていると言う。身なりが質素に描かれているが確かに鳳凰が屋根の上に乗っかっている屋形船が描かれているので間違いないと日本の学者さんもお墨付き。

そして最後に、この屏風が今日まで生き延びたのは、8枚に切り分けられて、キャンバスで補強され、バラバラに壁に埋め込まれたお蔭?!だといいます。なぜなら、あの戦争でお城はソ連兵の略奪にあい、宝物はすべて持ち去られたが、壁の中に埋め込まれた屏風は無事だったというのです。

数奇な運命を辿った大阪図屏風を見に、オーストリアグラーツのこのお城を訪ねる旅もいつかしてみたいものです。
         (公園の秋色)