こどもの日に出かけた大阪駅街の専門店の入ったビルの三省堂で、高村薫の「神の火」がなくて、代わりに2冊求めた一冊が、井上ひさし著の「日本語教室」です。
- 作者: 井上ひさし
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/03/01
- メディア: 単行本
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日本語と井上ひさしと言えば、NHKのテレビで放送された「国語元年」がとても面白かったのを思い出します。
「日本語はいまどうなっているのか」、「日本語はどうつくられたのか」、「日本語はどのように話されるのか」、「日本語はどのように表現されるのか」の4つのテーマで語られます。
「東北弁は標準語だった!?」は井上氏が東北出身であることを差し引いても面白いお話です。母語と母国語の違い、三つ子の魂百までなんですが、言葉は道具ではなく精神そのものという講義の出だしから興味が惹かれます。
カタカナ語で言葉を輸入するとき、元の意味や発音とは全く異なる日本化した取り入れ方が、日本語を混乱させるだけでなく、日本人の思想や行動にも悪影響があるのではないか。世界のアメリカ化に無批判でついて行くグローバリゼーションというのは結局アメリカ化なのだという考え方には、戦後の日本の現実をアメリカとの関係で考え続けてこられた井上氏の主張があります。
日本について考えれば考えるほど、戦後のアメリカとの関係を抜きには語れないという現実。
アメリカでは、たとえば、アフガニスタンを空爆すると、必ず反対する個人がいます。パナマ生まれの女子高生が、Tシャツに、空爆反対と書いて登校すると同調者が20人。校長が三日間の停学処分に。その少女と母親がアメリカ憲法ではこうした行動は保証されているはずと、州裁判所に訴える。2日間の審議で却下されると、次には連邦の最高裁に訴える。或いは、400億ドルの戦争費用と全ての指揮権を大統領に預ける決議に一人だけ反対した女性議員がいます。その後、議員の地元のバークレー市は空爆中止、国際機関を通して犯人を裁判で裁くべきだという決議を市議会が採択します。日本には伝わっていないが、色んな所で空爆中止の決議が出た。「こういうアメリカが僕は好きです。圧倒的多数が空爆支持、ブッシュ支持というときに、やっぱりきちっと反対する人は反対する」と書いておられます。
私も、星条旗を焼き捨てる自由を認めるアメリカの民主主義には感心しています。そのことと、政治的に日本がアメリカの従属国、保護国のような関係になり、我が国の官僚たちが日本よりはアメリカの利益の為に働いているのではないかとまで思えるこの国の有様は別問題です。
井上氏は言います:
完璧な国など無い。必ずどこかで間違いを犯します。その間違いを、自分で気が付いて、自分の力で必死で苦しみながら乗り越えていく国民には未来があるが、過ちを隠し続ける国民には未来はない。つまり、過ちに自分で気がついて、それを乗り越えて苦労していく姿を、他の国民が見た時に、そこに感動が生まれて、信頼していこうという気持ちが生まれるわけです。ところが、自分の国はほとんどいいことばかりしていて、あのときはしようがなかったという人がいますーーー一見、愛国者に見えますがーーーそういう人たちの国は未来はない。なぜなら、他の国から信頼されないからです。
日本の悪いところを指摘しながら、それをなんとか乗り越えようとしている人たちがたくさんいます。私もその端っこにいたいと思っていますが、そういう人たちは売国奴と言われています。でも、その人たちこそ、実は真の愛国者ではないのでしょうか。完璧な国などありません。早く間違いに気が付いて、自分の力で乗り越えていくことにしか、未来はない、ということを、今回の講座の脱線と結びにいたします。(第二講の結び)
2001年、10年前、アフガニスタン空爆の時期、もうすぐ「SHOW THE FLAG (旗幟鮮明に)」を迫られる頃の言葉ですが、なんだか天災・人災後の今の日本にも当てはまるような気がして読みました。(この「FLAG」を「日の丸」と解釈して、アメリカはそこまで求めていなかった(態度をハッキリという意味)のに、自衛隊をイラクへ派遣した・・・とも言われているようですが、憲法九条を持つ日本に誇りを持てない国会議員が多いのも問題だと思います)
引用文のなかで「愛国者」と「売国奴」というレッテルについて書かれています。
私も、このレッテル貼りが日本を駄目にして来たのでは…と書いてきましたが、原発においても「推進派」と「反対派」に二分されて、結局、肝心の技術についてまともに議論されなかったと指摘されたのは高村薫さんでした。
長くなりますが、松岡正剛の「千夜千冊」の最新夜(1414夜)は、松岡氏自身が連休中、東北の被災地を訪ねたという書き出しです。「堅い長靴を履いて言葉にならない気持ちを鞄に入れて、異貌の土地を歩くのは初めてだった」。
紹介されるのは、「塩釜で入手して帰りの車中で読み耽った「仙台学」11号の、「東日本大震災」とだけ銘打たれた4月26日特別号の数々の文章のうちから、いくつかを紹介しておきたい。この雑誌を刊行している版元は「荒蝦夷」(あらえみし)という。それだけで十分だ。立派だ。“中央に屈服しなかった者たち”の意味である」ということで地方誌が紹介されますが、その最後の部分を引用してみます。(全文はとても長いですが白黒写真もありますのでこちらで:http://www.honza.jp/author/1/matsuoka_seigow?archive=all)
特別号の掉尾は吉田司で、山形市出身。この作家この著者はぼくと同年代で、しかも早稲田文学部。在学中から小川紳介のプロダクションに参加して、『三里塚の夏』の演助をしたが、その感傷的な映像演出に耐えられず、1970年からは水俣に入って、若衆宿をつくりあげた。その体験が『下下戦記』(文春文庫)だった。その後の『宮沢賢治殺人事件』も『カラスと髑髏』も『王道楽土の戦争』も読んだが、なかでも『夜の食国(おすくに)』(白水社)はいずれ千夜千冊しようと思っていた。
その吉田がここで書いているのは「ハローハロー、こちら非国民」という、とんでもないもので、収録エッセイのなかで一番長く、一番過激な見方になっている。その過激な見方は、主に原発事故後のグローバルな事態の進捗に向けられている。
吉田は、アメリカ第七艦隊ロナルド・レーガンが岩手沖に停泊したとき、これはアメリカの“トモダチ作戦”などではなくて、実は“半占領”が始まるということだと喝破するのだ。
諸君、よくよく目を凝らしなさい。復旧支援は日米同盟の共同管理下に入っていくだけでなく、3・11の事態が資本主義ネットワーク国家による「組み合わせ自由の多国籍軍」の中に取り込まれていったというのだ。ヒラリー・クリントンが被災地を巡るというニュースを聞いたときは、これは「アメリカの“東北巡幸”を意味することになる」と直観したとも言う。
うーん、なるほど。ここまで言えるのは、吉田司しかいないだろうなと思いながら、ぼくは帰りの列車のなかでとろとろに眠りそうになっていた。