讀賣新聞の夕刊一面に「よみうり寸評」という小さなコラムがあります。
17日の内容は、「未来」5月号に原発事故についてのドイツ人の反応について書いたドイツ在住のジャーナリスト永井潤子さん(元ドイッチェ・ヴェレ記者)を取り上げています。引用してみます。
東京電力や政府の発表があいまいで事故や放射能の危険を過小評価しようという傾向がみられることにドイツのジャーナリストたちは苛立ちと不満を感じている。▼ドイツのメディアは、秩序正しく辛抱強いなど日本人の国民性を多く報じてきたが、原発の危険性に対する感度の違いも早くから伝えている。
▼広島、長崎を経験した唯一の被爆国日本がなぜ原発大国になったのか、原爆への反対運動は起きても大規模な反原発運動がなぜ起きないのか
▼ドイツ人にはそれが不思議なようだ。地震、津波、台風に襲われることの多い国が50以上も原発を作ったこと、海辺の原発の危機対策がお粗末なことなどを伝えている▼同情から批判はまだ控えめだが、お粗末な人災が明らかになるにつれ日本批判が厳しくなるのではないかと永井さんは心配している。
日本は広島・長崎の2度の原爆、その上、ビキニ環礁でのアメリカの核実験で第五福竜丸が被爆、乗組員の久保山愛吉さんが犠牲となっています。3度ともアメリカが加害者です。ところが、今回、福島の原発事故は2ヶ月を経て、もう世界の誰の目から見ても人災が明らかになり、日本は放射能による大気汚染、海洋汚染の加害者になってしまいました。ドイツ人が疑問に思うことは、私自身の3・11以後の疑問でもありました。
そして、今回の東電の事故から色々考えてみると、政官財学マスメディア総がかり何億円という大金(しかも税金!)をかけた大掛かりな「安全神話」の所為だった、しかも、製造元のGE社からは原子炉の肝心の部分の英文の説明書も渡してもらえていないということが解りました。原発反対が、こういう日本の経済と政治を支配している巨大な力を相手にしなければならず、反対する人は、芽を詰まれ、追いやられ、潰されてきたのだと想像できます。追いやられても潰されなかった稀有なケースもあるということを今メディアで取り上げられる京大の小出裕章先生などの例で知ることが出来ています。
結局、私たちは原発推進派の「原発は安全、安心、クリーンで、しかも安い」という作り話を信じ込まされ、反対意見の存在はほとんどマスメディアでは取り上げられず、ゆえに原発反対運動をする人たちは特殊な考えの人達というイメージを持つようになっていたのでは・・・(チョッと言い訳交じりですが)。
昨夜11時のTBSのニュースで、4月11日のブログで取り上げた原子力災害用ロボットの30億円かけた開発が1年で打ち切りになった問題を取り上げていました。加えて4月22日のブログで取り上げた香川県多度津にあった世界最大級の耐震テスト設備が小泉政権下の2005年、経費削減のため今治造船に払い下げられた問題。こちらは老朽化した電発の配管などの耐震テストを行っていて、国会でも問題にされていたのに廃棄処分されました。罪深く非科学的な判断だと思います。一体どうして我が国の優秀な官僚や政治家や企業や研究者のエリート達がそういう判断をするに至ったのかはメディアで追求してほしいと思います。お金のためだけなのでしょうか。ウォルフレン氏の警告(4日前、15日のブログ)に書かれていたように、安全保障や外交をアメリカに任せっ切りにした日本はすでに他の分野でも自主的判断の出来ない国になってしまったのかも知れません。
先週、福島の避難先から2時間の一時帰宅を許されて防護服を着て我が家に戻った方たちがいました。ビニール袋一杯分の荷物のみ持ち出しを許されて。このニュースを見ていた母が、「家に置いてあるものを持ち出しても大丈夫なの? 放射能はついてないの?」と。2ヶ月間その地域にあった物を除染もしないで持ち出してよいというのでは、防護服は何のため? 住民の健康はどうでもいいの? 屋内退避でよかったんじゃないの?と疑問がわきます。それとも除染はされたのでしょうか?
先週の「アンカー」では、青山繁晴さんがこの点を解説して「あの地域は元々大丈夫なんだ」と言いました。実際の放射能汚染は20キロ、30キロの同心円で地図上にコンパスで描いたようには進んでいない、あの地点は元々大丈夫なんだ、政府が風評を生んでいるということでした。(ただし、この発言が正しいかどうかは分りません)
1ヶ月前に出された工程表、2ヶ月目直前にメルトダウンという新しい事態が認められても、工程表の期限には何の影響もないということは、前の工程表は、メルトダウンを前提にしたものだったということになります。それでは何故それが公表されず隠されなければならなかったのか? 疑問が生まれます。
アメリカが前面に出ないように政府は配慮しているようです。肝心の炉のことは製造国であるアメリカが分っていて、最初の段階から事故は想定外の大規模なもので東電は手に負えないお手上げ状態だったのを菅さんが「撤退はあり得ない」と言ったと伝わっていました。アメリカの援助を求めて事故処理すべき時に意地を張って自力でやれると判断したのなら判断ミスです。任せる所では任せる判断を自力でするのが自主性です。アメリカが前面(全面?)に出て事故処理しているのでは政府の面子がたたないと考えるのは形式主義です。正直に話せばパニックになるとして情報を伝えないのは、健康と命に関わる危険は当事者に知らせるべきだという基本の点で裏切り行為です。
と、事ほど左様に政府と東電のやっていることは素人が見てもツジツマの合わない支離滅裂の対応です。国民の命と健康を守るという基本的なところで信頼が置けません。一月前と二ヶ月経っても同じことが繰り返されています。住民の健康や暮らしより、東電の生き残りの方が大切なのかと思ってしまいます。
一体、政府はどっちを向いているのかが分らなくなります。 きみ民(たみ)売り給う事なかれ。
原発推進を白紙に戻すという話、エネルギー基本計画を見直す中で、電力会社から送電部門を切り離すという発電と送電を分離するという話、原発を監視する原子力安全・保安院が原子力行政を推進する経済産業省の下にあること・チェック機関と原子力行政を進めていく立場の両方が同じ役所のもとに共存していることを見直すという話。菅さんの本気度とリーダーシップが試されます。