6万人の脱原発と敬老の日のタイムスリップ

19日(月)は敬老の日の祭日。この日行われた「さようなら原発」の東京でのデモ、6万人も集まったとか。
朝の「モーニングバード」でデモの様子を見ると、子ども連れの若いお母さんが多かったようです。山本太郎さんもマイクに向かっていました。落合恵子さんが歩いている姿も見えました。
日経朝刊に記事がやっと見つかりましたので全文引用してみます。

脱原発の集会 6万人が参加



 東京電力福島第1原子力発電所の事故を受けて、脱原発を目指して作家の大江健三郎さんらが呼びかけた「さようなら原発5万人集会」が19日、東京・明治公園で開かれ、約6万人(主催者発表)が参加した。事故後の集会では最大規模。廃炉に向けて活動している福島県の市民団体メンバーや大江さんらが「原発はいらない」と訴えた。
 集会後、参加者は3コースに分かれて都内をデモ行進した。警視庁は、デモの参加者を約3万人としている。      (2枚の写真はお昼のテレビ番組から)

昨日は叉、日本原子力学会原発事故の特別シンポジウムを北九州市で開いた。この人たちの責任は重大ですので、注目して見ました。会長の田中知・東京大学教授は「事故で広範囲に放射性物質を放出したことは、原子力研究者として大変残念だ。一刻も早く環境修復と避難者の帰宅が可能になるように貢献したい」と表明。
二ノ方寿・東京工業大学教授は、「原子力専門家の過信で神話が独り歩きしてしまった」と。この発言には我が家では二人で突っ込み!でした。他人事みたいな言い方はオカシイ! 一人歩きさせた責任は! 宮野広・法政大学客員教授は、「軽微なトラブルにこだわりすぎ、本質的な原子力安全への取り組みの議論を避けてきたのではないか」と指摘。<原子力学会の福島第1事故に関するシンポジウムは5月以来2回目。3日間の定例大会を1日延長し、一般聴衆ら計500人が参加した。>(日経)
私は、反対意見を持った学者さんたちの存在をどう感じ、どう思っていたのか、を一番聞いてみたいです。
さて、夕方関西テレビの長時間ニュース番組「アンカー」を7時ごろまでつけっ放しにして豚カツの準備にとりかかっていました。途中で切り替わって東京のフジテレビのニュースが入ったりするのですが、関西テレビと言っていましたのでフジではない企画で、原発事故現場で働いている作業員との覆面インタビューがありました。
福島の避難地域で生まれ育った方で、生まれた時から原発があり、豊田の人がトヨタで働くのが自然なように、原発で働くことは自然であった。日本の首都や首都圏に電力を送っているというプライドもあった。でも、一旦事故になると取り返しが付かない災害になる。今は、廃炉にして原発は造らないほうが良いと思っている。作業は積算放射線量が高く、炉から少し離れた作業に回っているが、いずれガンで死ぬ身体。お金をもらっていた原発の町の人間は、被害者でもあるが加害者。飯館村のように恩恵をうけず被害を受けている人たちに対しては申し訳ない。誰かが話さないと中での様子が伝わらないと取材に応じたとの事。関テレ、やるじゃない!という放送の後だったと思うのですが、86歳で現役のサッカー指導者が取り上げられました。

「成徳小学校!!」長男が八幡幼稚園に通っていた頃、近くの小学校に二人の子どもを連れて遊びに行った時、校庭でサッカー教室を遣っていました。指導者がいて基礎練習のようなことをキチンと順番を作ってやらせていました。50周年ということは、その時、すでに教えていた先生ですから、息子はこの方にサッカーを教えてもらっていた!! へぇ〜〜!!ということになりました。神戸はサッカーが盛んだからと聞いていましたがサスガ!と思ったもんです。
東京の息子に久しぶりにケイタイを掛けると留守電。夜になって、息子から電話。「え〜! ボクのサッカー事始めが成徳小学校のサッカーや! 1年生で引越し、4年生からの子ども会のソフトボールはトコトンやって最後は優勝したし…中学校は、野球部で坊主になるのも嫌っていうのもあったけど、やっぱりサッカー。それに、小学校の空いた時間はサッカーしてた。蹴り方が成徳のお陰で基礎が出来てて、チョッと違ってたしな〜。
86歳でまだやってるって! 凄いな〜。僕みたいなことを言ってるのが何千人っているんやろうな〜、すごいな〜。思い出した。怖い先生でよう怒られた。それで、弟ではアカンし、お父さんに頼んで、六甲のあの芝生で練習しようと引っ張り出した。それで、こりゃアカンはお父さんでは、と思ったことを思い出した。お父さんは覚えてないかも知れんけど、ボクと同じレベルでアカンと思った。懐かしいなぁ〜」と35年ほど前の話になりました。「それで何でサッカーのその教室に?」というので、「アホな母親やから子どもがしたいということは何でも叶えてやろうと思ったんでしょ」(実際には「幼稚園の子でもいいんですか?」と訊いたぐらいのことしか覚えていませんが)
夫は転職後の仕事人間真っ只中の30代でしたから、子どもたちの幼稚園や途中にあった成徳小学校のことも知らないし、息子のサッカーの相手に不合格だったことも記憶にないとの事。テレビで知った林先生の指導者歴50年が、私たち母子の35年前にタイムスリップさせてくれました。