「原発事故への道程・後編」つづき(2/3)

こうやって番組を見直していると、あぁ、この時、真摯に受け止めて…とか、この時、もう少し謙虚にとか思うことがあります。でも、大切な声を無視して、既成事実に既成事実を重ねて、国ぐるみ裁判所ぐるみで一つの方向に走り始めたら、一体その動きにブレーキをかける事ができるのだろうか・・・。そしてその結果が今の福島の現状です。
それだって他人事と感じている人たちが、またぞろ同じ道を進もうとしています。その動きを止めて方向転換させることが本当にできるのか・・・・と挫けそうになります。
私達に何が出来るのか・・・ミツバチのぶんぶんだと言う人がいます。一声を集めて、一筆を集めることだと言う人がいます。やってみるしかありません。

1974年9月1日、日本で始めての原子力船「むつ」が放射能漏れの事故を起こす。太平洋上の出力実験中に放射能を漏らしたこのトラブルがきっかけで国の原子力政策は国民から疑問視されるようになる。基本設計の安全性を審査した科学技術庁と船の建造を管轄する運輸省が責任を押し付けあったため非難の声が上がった。
島村原子力政策研究会(1992年)。「むつ」の問題に関わった官僚たちが原子力行政の見直しを迫られたことを語っている。焦点は1956年に設置されて以来、日本の原子力行政を担ってきた原子力委員会のあり方だった。
通産省・島村(録音)「これが直接の動機だったことは間違いないんですが、それまでに原子力発電所で事故というのは変ですがあったりとか、或いは分析研(放射線の研究所)の問題もありましたね、色々なんだかんだといわゆる不祥事みたいなものが相次いであったと、これも「むつ」で頂点に達したと、こういうことだと私はおもうのですよ。」
科学技術庁・沖村憲樹(録音)「まず原子力行政の責任体制が不明確であるということが批判の大きなものであると、もう一つは規制と推進が同じ組織でおこなわれているということに対して国民の間で不信感が起きているんじゃないかと。」
当時は、エネルギー問題が非常に重要な問題ということで、原子力委員会原発を推進しながら安全審査など規制に関する役割もになっていた、このことが問題とされた。
「石油が足りなくなるということで原子力にシフトしなければいかんという言論があったわけですけど、一方において不安、国民の不安ということから立地がなかなか進まないということで、これを勧める為には行政機構全体を一回いじってみなければいけないんじゃないかということも背景にあったんじゃないかと思いました」「要するに行政全体を見直す委員会を作らなきゃいかんというのは大きな世論みたいな感じだったというふうに記憶しております。」(安全確保の為というより原発建設を進めるのに障害となる住民の不安を除去することが目的だった?…蛙の心配)
1975年、「原子力行政懇談会」を設置。有識者原子力行政のあり方を議論してもらった。そこで出されたのが原子力行政を規制する強力な組織「原子力規制委員会」を求める意見だった。参考とされたのはアメリカで行われた改革でした。アメリカは強力な権限を持った原子力関係機関を規制にあたる「原子力規制委員会(NRC=United States Nuclear Regulatory Commission)」が作られた。ところが懇談会の事務局を務めた沖村さんによれば、アメリカのような組織をつくることには反対意見が多かったと言う。
1976年7月、「原子力行政懇談会」は最終報告を三木首相に提出。これをうけ原子力委員会を分割し、新たに原子力安全委員会を発足させた。規模はアメリカNRCのわずか10分の1で権限も限られていた。電力会社などを指導する場合は意見を述べるだけにとどまり直接指示命令する権限はない。
1992年の島村研究会の録音から。元日本原電社員・板倉哲郎「丁度あの時でしたからね。アメリカが二つに分かれたでしょう。アメリカが失敗したと思っているところは多いんですね。あれでさっぱりもう開発がなくなりましたからね」
沖村「結果的に15年終わってみても原子力の反対も安全委員会が吸収して、原発もまあ滞りながらもスムーズにいってますので、この態勢も結果的にはよかったのではないかという気がします。」



早くから原子炉の安全研究に取組んできた佐藤一男さんは、新しく出来た原子力安全委員会で仕事をするようになった。
元日本原力研究所職員・佐藤一男さん(番組取材インタビュー)「安全なんてことを口にするな、安全の研究なんてとんでもない、そんなものは国民を不安におとしいれるだけだ、と言うんですね。そういう風潮が割りと強かった。だから安全性と銘打った研究はまずとても日の目を見ない。そういう時代がだいぶ続いたんですよ」「安全と言ったらどうなるんですか?」「村八分だよ、言うならば。誰も相手にしなくなっちゃうよ」「どこから村八分?」「原子力村からだよ〜。そんなことを言う人は仲間はずれにされちゃいますから。」


1979年3月28日早朝、アメリスリーマイル島原発で事故
100万分の1という大事故発生の確率ー原発は限りなく安全だという考え方に疑問を抱くことをタブーとする暗黙の了解が定着しつつあった矢先のことだった。原発の安全装置(ECCS)が停止し炉心溶融事故が起きた。原子炉からは大量の放射能が大気中に放出され数万人の住民が町から避難する事態となった。
アメリカで起きた事故は日本の研究者を動揺させた。スリーマイル島の事故を受けこれまで原子力政策に協力してきた研究者たちは、その年の11月26日、事故を検証する学術シンポジウムを開いた。しかし、原発の危険性を訴える研究者たちは排除されようとしたため激しい対立となった。 (↑文字通りの”排除”にビックリ!)


スリーマイル島原発事故の直後、伊方原発訴訟の控訴審高松高等裁判所で始まった。原告側は国の立地審査の際には想定していない”想定不適当事故”だとしていたメルトダウンが起きた以上、原発許可は無効だと改めて訴えた
(記録)原告側証人・藤本陽一「スリーマイル島原子力発電所で起こった事故は、論争の経過を言えば「想定不適当」の事故に属するもので御座います。スリーマイル島の事故で出ている放射能は伊方の安全審査の時の最悪の仮想事故の数字を上回る量です。数10倍に達する量が出たわけです。」

一審で国側の証人に立ったのは佐藤一男さんたった一人でした。(裁判記録の「弁論調書」から)佐藤一男「運転員と呼んでよろしいかと思いますが、この人たちの誤った判断に基ずく行動によるものと思います。それが決定的な要因でございます。従ってその設計そのものが直接の決定的要因になっているものではございません。」
原告側は一審で国側が起こることがないとしていたメルトダウンが現実におきたことを問いただします。
原告弁護士「メルトダウンにより圧力容器が割れたら放射性物質が全部外に出てしまいますね。大変なことになりますね。」佐藤「はい」「国の方では、これは破損することはないという前提に立っていますね」「はい」「住民の方からは圧力容器だって破損しない保証はないじゃないかと主張していることはご存知ですか」「私は直接は目にしていないと思います。ただ、圧力容器が破損するかどうかという問題はいろいろな所で存じ上げています」「圧力容器の破損に対しては安全装置がないんだというのですが、これは?」「破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」「日本では破損しない前提で安全審査をしているんですね?」「さようでございます」。


佐藤さんは原発事故発生の確率は100万分の1という国の主張してきた安全性をたった一人で背負って闘うことになった。
(番組取材インタビューに答えて)佐藤さん「それはね〜、誰が言ったのか、ということになります。それはね〜、住民の方でも耳障りが良いからサ〜そっちの方がそうか〜、と思いたくなるんです、安全だって言われた方が、安心でしょうよ。だけどね、そういうことを言ってる人はね、本当に、そう思って言ったんだろうか? その場しのぎのことを言ったのかも知れない。あるいは、本当にそう思ったんだとしたら、その人は、そういう仕事を担当する資格に欠けていたのかも知れないネ、逆にね。そんな好い加減なことで安全審査しなさんなと言いたくなる話でしょ。そういう話は後になって非常に災いを残すんです、色んな意味で。だからね、そんことを言う人たち、言った人たちは、もうお亡くなりになったり、引退したりしちゃってるからいいかもしれないが、後継者は非常に苦労しますよ。」
原告側は一審の証人であった内田秀原子力安全委員長の証人尋問を行います。これに対し国側は審議は尽くされていると早期の結審を求める。その結果、裁判長は弁論終結を宣言。翌年、控訴は棄却。1989年12月14日、原告住民は上告した。


80年代になると原発政策の担い手たちの間では原発稼働率の低さが問題にされるようになっていた。
(録音)元通産省・谷口富裕「電力の技術屋さんは会社によって非常に差がありますが一般的に技術のユーザーですが、私なんか嫌味で電力の技術屋さんは電話をかける技術屋さんが非常に多いんじゃないかと言ってうんですけどね。まさに自ら技術の改良とか基本的対応というのを積極的に取組むトレーニングをうけていない、あるいは能力を開発していない。基本の所は自分でデザインしたり開発したわけじゃないですから運転とかメンテナンスやきめ細かな改良は得意だが、根っこまで入っていくと技術基盤が十分強いのかな?・・・と」
島村「電力会社はね、何も出来ないのかと、受け入れの検査も・・・疑問があるわけですよ。物を買ってね、悪かったら取り替えるは当り前かもしれないけど、自分で買ったものを動かしておいて、そして、それで自分も気が付かない。」


この頃、各地の原発では故障やトラブルが続出していた。その度に長期間運転を停止する。原発のメリットは燃料費が安いため電力を安価に供給できること。そのメリットが生かせない。原発稼働率をグラフ(左上)にしたもの。当時東電の原子力保安部長だった豊田正敏さん「トラブルが多くて止まった時はね経団連の会長だった土光さんから『おい、何とかしろ』と言われたのですよ。だからね、そんなことを言ったって、任して下さいよ、今日言われたって、直ぐ出来るものじゃないし・・・」
原子力発電の本格化した70年代以降、稼働率は低下を続けていた。
1975年、国は原発の改良に取組む委員会「改良標準化調査委員会」を通産省の中に設置。「わが国独自の軽水炉技術確率に本腰」を入れて、故障やトラブルの原因となる機械の欠陥を改良し国内の原発の新たな規格を作ることで稼働率を上げようとするものだった。原子炉にかける投資額をグラフ化(右)したもの。改良標準化が始まってから原発に注がれる資金は急増している。電力会社は稼働率の高い新しい型の原発を建設することに力を入れた。



そんな中、アメリカから思わぬ知らせが入る。アメリカ議会の公聴会福島第1原発などで採用されているマークl型が重大な事故につながる欠陥を持つことが指摘されたのだ。(参照:「アメリカから見た福島原発事故」)
元GE社技術者デール・フライデンボーさん(番組現地インタビュー)「いくつかの原発は直ぐに運転を停止すべきだと思いました。安全かどうかの調査が終わるまでは電力会社に停止すべきだとの意見を伝えましたGEの上司にも伝えました。しかし、東京電力のマークI型の原子炉を停止することは出来なかった

70年代当時東電の原子力保安部長(後々は東電副社長)だった豊田正敏(91年の録音)「一番の目的はやっぱり新しい物を、材料も設備も標準化すれば予備も共通で持てる、それから、安全審査なんかも一回で済ませるわけですよね。あと右へならへで、期間も短縮できるわけですよ、そういうメリットはありますよ。だけど既設のものについては、やることはやりますけども100%はやりませんということはあります。それを福島第二(原発)とか4号機あたりまでのものにやれと言っても、それは出来ませんということですね。」



1984年、改良標準化で急増し続けている原子炉への投資は下降に転じます。代わって増加したのが核燃料関係への資金注入だった。島村研究会はその予算配分の変化についてふれている。その時、国の原子力政策に大きな方針転換があったという。
島村元通産省官僚(91年度夏の録音から)「電力会社も相当長年にわたってずい分改良をつづけた。ひとわたりもう軽水炉の方はいいなと言い出したのは今から7,8年前でしょうか(1983,4年)。それで次は再処理の問題だというので再処理の方へお金がずっと流れ始めたような記憶があるんですけど。いっぺんそれをトレースしてみると二度目の軽水炉への援助は一定の所で叉落ちているのですよ。電力の援助もね。
通産省・谷口富裕「今のプルトニウムの技術を中心にした核燃料サイクルの確立というあたりも、それについての国際的なアクセプタンスをどう得ていくかという。こんな経済的に引き合わなくて、政治的には最近みんなが日本に警戒心を高めている中で、うまくいくわけがないという心配をですね、非常にしているというのが正直なところです。」


核燃料サイクル計画」とは原発から出る使用済み核燃料を循環させるシステムです。使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを抽出する、それを高速増殖炉などでふたたび燃料として使用するというもの。国がこの核燃料システムの完成を急いだのには国際情勢の変化があったという。  つづく