「高木仁三郎さんの思い出」

昨年末、福島原発事故の事故調について検索していて見つけたブログの記事です。
ブログは「明日うらしま 在ベルリンジャーナリスト・梶村太一郎の反核覚え書き]」(http://tkajimura.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html)で、記事は「国会事故調査委員会高木仁三郎さんの想い出」です。長くなりますが引用してみます。
高木仁三郎さんについては昨年の7月の蛙ブログでも、著書「原子力神話からの解放」((「原子力神話からの開放」 - 四丁目でCan蛙)とテレビで高木さんを取り上げた番組「反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20110704/1309760871)で触れています。

昨日、定期的に送られてくる信州の田中洋一さんの「伊那谷から」の報告が届き、素晴らしい内容なので読者のみなさまにも紹介したく、今回も著者のご承諾を得て全文を掲載させていただきます。
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伊那谷から 154        (2011年12月10日)

 東京電力福島第1原発の事故原因の解明に取り組む国会の事故調
査委員会が8日発足した。
原因はこれまでの報道で何となく分かった気になっていたが、そう
ではないと思い知らされた。政府とは独立の立場で、国会が独自に
事故調を設置するのは今回が初めてということも知らなかった。来
年6月までに報告書をまとめる。
 事故調は10人の民間委員から成る。報道ではノーベル化学賞の田
中耕一さんが注目されたが、原子力は専門外だ。私が事故いらい注
目している方々が3人いる。石橋克彦さんは地震学者。地震列島に
原発を造る危険性を以前から指摘し、放射能災害と通常の震災とが
複合・増幅し合う「原発震災」を強く警告してきた。2005年には衆
予算委員会公聴会でも同じ指摘をした。公の場での発言は残念
ながら生かされず、その6年後に現実のものとなる。
 田中三彦さんは科学ジャーナリスト。この秋、信州白馬の市民集
会で講演を聞いた。事故の概要はこうだ。炉心の冷却が利かなくな
って、燃料棒の温度が上昇し、内部からヨウ素セシウムなど放射
性物質が溶け出した。それでは、冷却を止めた原因は何か。東電や
原子力安全・保安院は、津波の衝撃で配管が壊れたため、と説明し
ている。だが田中さんは津波以前に地震の揺れで、複雑な配管が壊
れたからではないか、と考えている。冷却水の水位や原子炉の圧力
の経時変化から、可能性が推測されるそうだ。
 原因が津波でなく地震と判明すれば、稼働中の原発への影響はは
るかに大きい。中部電力浜岡原発などの津波対策の強化だけでなく、
原発の耐震性そのものを見直す必要が出てくるからだ。
 「真相は原子炉に人が入って、圧力容器や配管を一つひとつ見て
回らなければ分からない」と田中さん。もちろん、それまでに10年、
20年とかかる。今の段階では、原因は津波とも地震とも特定し切れ
ないという。「だからこそ、東電や政府は今、根拠となるデータを
きちんと示すべきだ」と力説した。事故調は国政調査権を持つ。デ
ータを原子力ムラから引き出して、解明を進めて頂きたい。
 5月の衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会で、放射線
の危険性について語った崎山比早子(ひさこ)さんにも触れたい。
いわゆる安全基準は社会的・経済的な事情から決められたと説明し、
「特に妊婦や子どもは放射線を浴びないように、移住も含めてあら
ゆる努力をすべきだ。国会議員は力を尽くしてほしい」と訴えた。
放射線医学の専門家だが、科学・医学の知見を振り回さないのは、
市民科学者の育成に取り組む高木学校のメンバーだからか。
 その高木学校は、反原発運動を支えて2000年に他界した高木仁三
郎さんが提唱した。彼こそ最も事故調に加わるべき方だった。

  田中 洋一
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田中さんのコラムは6月にも転載させていただきました;
http://tkajimura.blogspot.com/2011/06/blog-post_12.html

 拝読し、日本の国会てもようやくまともに事故の調査か出来るかもしれないと思い、多少の期待をもたらす朗報として受けとめたいと思います。 それよりもこの報告の終わりの高木仁三郎さんが「彼こそ最も事故調に加わるべきであった」との記述を読み、おもわず涙がでました。わたしも、2000年の10月に高木さんがわずかか62歳で亡くなられたあと非常に喪失感が大きく、何かにつけて高木さんの想い出を書いたものです。 しかし、今年の福島の事故に面しては、格別に高木さんのことが強烈に思い出されました。 ずば抜けた能力と行動力で、日本の反原発運動の先頭に立ち、大きな業 績を残され、影響力のあった人物でした。だから今年は日本でだけでなく海外でも今年は彼を惜しむ声が強いのです。このプロブでも紹 介しました 環境省原子炉安全委員会のミヒャエル・ザイラー氏や、放射線防護 協会のプルークバイル博士などとも合えば、高木さんの話が出るのです。

「高木さんが今いてくれたら」と思う人は非常に多いのです。田中さんのコラムを読んでまた哀しくなったのはそのせいです。高木さんの元気な頃のドイツの盟友であったこのふたりの活躍ぶりを側で見るたびに、またこのような日本からの報道に接するたびに、避け難くこの思いはつのります。なぜならもしお元気であれば、今頃は一 日も早い日本の全核施設の廃止に向け、先頭に立って政府を突き上げ、目を奪うような大活躍をされていることは間違いないと思うからです。

そこで今回は、あまり知られていない高木さんのプライベートな一面を想い出として書いておきます。 前55回のプルークバイル氏の勧告にも「日本の科学者に市民の側に立つように」との呼びかけがありましたが、これは氏がよく知る高木さんが主張し、生き様として貫いた「市民科学者であって欲しい」との 要請なのです。亡くなる一年前の1999年9月に出された岩波新書は『市民科学者として生きる』です。本書は重病を押して彼が書き残した自伝です。未見の方には是非一読を勧めます。
贈呈してくださったこの著書には、原子力情報資料室の仲間からの添え書きとして「東海の臨界事故で資料室はフル稼働です。高木さんも復活して くれていますが、お身体が心配です」とあります。  <以下略>

略した中には、高木さんご一家のドイツでの写真があり、ご自分の癌と仕事との関わりを問われた時の返答などが書かれています

原発の闘い半ば散った先達・高木仁三郎さんの想いを引き継いで、たくさんの人たちが後に続くことを願いたいです。
高木さんとは対極にある人々、原発推進を図る人々がやってきたお金にまつわる話がまた暴かれています。
モラルに反する行為はいつかは表に出ます。3日の新聞記事(日経)から:

原子力安全委員 業界から寄付金 就任前、数百万円」


 原発の設置許可申請などについて、安全審査のダブルチェックとして2次審査を担当する原子力安全委員会の5人の委員のうち、斑目春樹委員長と代谷誠治委員が、就任前の3〜4年間に、原子力関連企業や業界団体から310万〜400万円の寄付を受けていたことが2日、分かった。
 安全委の下部組織の専門審査会で、非常勤で審査を担当する複数の委員も、審査対象企業などから寄付を受けていた。いずれも審査の中立性への影響はないとしている。