「原子力都市」

「さようなら原発1000万人署名」についてご報告です。

署名者数 6,154,043人(4月6日現在)


    署名いただいた人数が600万を超えました。
    引き続き、よろしくお願い致します。


          さようなら原発1000万人アクション
               
http://sayonara-nukes.org/

書名の集計はまだ継続中のようですので、署名がまだの方は是非どうぞ!
先日テーブルの上にカバーのかかった本が。中を読んでみると原発関係です。拾い読みしてみると、私が3・11以後、ずっと気になっていたことが書かれています。
地震津波の被害と福島第一原発事故の被害とは全く異なる天災と人災です。それを「3・1」1として語ることは、どうしても無理があると思ってきました。「3・11の地震津波による原発事故」と注釈のようなものを付けないと「3・11」だけでは語ることが出来ません。
ところが、そのカバーのついた本の書名は「3・12の思想」というのです。
はて?と思いながら序説の「はじめに」を読み進むと、こう書いてあります:

 しかし、どうなんでしょうか。ここで、巨大地震から放射能拡散までをまとめて「3・11」と呼んでしまって、それでいいのでしょうか。ここに私はなにか乱暴なものを感じてもいます。一口に「3・11」というだけではすまないのではないか。「3・11」と言ってしまったときに、何か大事なものをとりこぼしてしまうのではないか。もう少していねいに、じっくりと考えようじゃないか、と。


 そう考えるなかで、あるとき「3・11」という日付が頭に浮かんだのです。私たちにとって本当に決定的であったのは、3月12日なのではないか、と。
 今回私が話すのは、「3・11」ではない、「3・12」の話をしようと思います。

著者は矢部(やぶ)史郎、知らない人です。生年1971年、アラフォー(40代前後)世代です。
「あとがき」によりますと、隣町の池田市で、昨年の暮と今年の初めの2日間、「フェリックス・ガタリアントニオ・ネグリの翻訳・紹介で知られる」杉村氏の事務所で行われたロング・インタビューを本にしたものとか。

私はガタリもネグりも知りません。でも、原発事故を3・11でひっくるめることには私も違和感があり、「3・12」について話したいという内容には大いに惹かれます。この本の持ち主は我が息子。「読み終わったら貸して〜」と頼み込みました。そして、待っている間に、この本でも触れている3・11以前に出版されたという「原子力都市」を息子に買って来てもらって、こちらを先に読んでみました。

原子力都市

原子力都市

素晴らしい感性と知性の若い思想家との遭遇です。この本は、著者が2006年から2年間、いくつかの土地を歩いて書いたというエッセーをまとめたものです。写真が入って読みやすいのですぐ読めましたが、書かれていることは斬新な「現実の捉え方」(思想)です。「序」の一部:

 「原子力都市」は、一つの仮説である。
 「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。それは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。
   ・・・・・・・・
 原子力都市の新たな環境のなかで、人間の力はいまはまだ小さな犯罪や破壊行為に封じ込められている。だが、こうした小さなうごめきもいつかは、政治と文化を巡る一般理論を生み出し、確かな意思を持つことになるだろう。この無数のうごめきがはらんでいる創造性を解き放つために、いま考えなければならないことがある。
 生活が味気ないというだけの話はもうそろそろきりあげて、次の話をしようと思う。

著者が訪ねた町は、柏崎、(旧)上九一色村サティアン跡)、呉、京都、むつ、川口、硫黄島、広島、両国(隅田川テラス)、圏央道(つくばジャンクション)、藤里町、厚木(幽霊病院)の12カ所です。
出だしの柏崎でもうこの著者の「原子力都市」と名付けた意味がわかりますが、スリリングな体験です。
まず、2007年7月16日の震度6強の新潟県中越沖地震から書き出されます。そして柏崎市は、「穏やかな調和のとれた田園工業都市である」と概要が紹介されますが、「この街には『なにもない』。すべてが揃っているにもかかわらず、何もないのだ。・・・・・・・・・あらゆるものがありながら、そのdifference(差異)が蒸発してしまっている。そしてぞっとするようなindifference(無関心)が、街を覆っているのである。」
この街の性格を象徴する事件、「新潟少女監禁事件」が取り上げられ、「誘拐とドメスティックバイオレンス。少女と、母親。二つの暴力が二つの秘密を生み出し、監禁の部屋は二重の壁で外部と隔絶されていたことになる。ここでは二人の人間が自由を奪われ、二人の人間がみえなくされていたのである。」「この監禁事件(そしてDV事件)を特徴づけている不可視的性格は、原子力都市の一般的規則をしめしている。」と、ここから東京電力柏崎刈羽原子力発電所が出てくる。
このエッセーの締めくくり部分:

 このとき、被災した柏崎市民に関心を寄せる者はほとんどいない。柏崎の街と住民は急速に忘れられていくだろう。あれだけの規模の震災に見舞われてもなお、柏崎は人々の関心を惹かない。マスメディアの技術的発展というものは、ここでは何の意義も持たないし、その方向を反転してもいる。indifference=無関心の規則によって、柏崎は見えないままに置かれるのだ。 
 柏崎の海水浴場は、若いカップルや家族連れでにぎわっていた。まるで何事もなかったかのように。問題は放射性物質の毒性だけではない。真に恐ろしいのは、この大規模なindifference(=無関心)が、東京と柏崎を貫いていて、それはいまでは、原子力都市における生存の条件になっているということだ。 

この部分、柏崎を福島に置き換えてみても同じではなかったか、あるいは今も一部同じでは・・・と思ったのです。「3・12」以後、みんな変わったと言います。私も自分自身が変わったと思います。
それでも、おそらく7割が変わって、2〜3割はまだ変わっていないのですね。自分の中の、そして、国民の。無関心部分がいつも意識出来るように変らなければ…原発事故被害者は広島や長崎、水俣と同じになってしまいます。

さて、「3・12の思想」がやっと手元に。読んでみます。
坊の島の畑の中から山を見るとパッチワークのように桜の木があちこちに咲いています。